自分らしく生きることを良きこととして伝える罪深さとは
自分らしさ
とか
自分らしく生きる
って何なんでしょうね。
明確に答えられる方、居ますか?
向き合ったことがある方、居ますか?
このテーマ、noteを毎日更新し、多くの方と交流していた2022年後半にはよく話していた気がします。
世間で使われている一般的なイメージとしては「自分が求めていないことは極力せずにやりたいことで生きる」ってくらいのイメージだと思います。
多分ね、それくらい世の中の方たちって今ある自分に閉塞感であったりとか、それなりに満足はしているけどどこか「これじゃない」って感じている部分があると思っています。
今までだったらそういう想いに蓋をして忙しい日常に身を投じていれば良かったのですが、人類にとってある意味で最悪の発明であるSNSによって状況が変わってきてしまった。
まぁ要するに「隣の芝は青い」んですよ。
青い芝生がまぶしくて仕方がない。
毎日毎日青い芝生見ていたら閉塞感と「これじゃない」は膨れ上がってきますよね。
そこに有名人もメディアも悪魔のささやきをするんです。
「自分らしく生きよう」
って。
で、おとなしく蓋をしていればいいのに、地獄の窯を開けてしまう。
自分らしさを追求しようとするとどうなると思いますか?
大抵の場合はすぐに壁に直面しちゃいます。
やりたい仕事とか表現をしようとしても、残念ながら青い芝生なんてそんなに育てられません。
そうです。
アレと似ています。
noteに来て最初は仲間が出来て、なんかいい感じだなぁと思って交流して、ビューも伸びて楽しくなってくる。
でも、そこから進展しない。
とはいえ仲間と交流するのは楽しいし、芝が青くなるかもしれないから書き続けてみる。ただし大体の場合が我流で、誰かにアドバイスを求めたりするわけじゃなくて、エッセイという名の日記を書き連ねていく。
自分らしさを求めて始めたはずの自己表現の中でさえ、こうして閉塞感を覚えていく。そして自己実現や自分らしさを主張する場でさえストレスを抱えていく。
これ、日常生活とSNSの「親子のストレス」ともいえる状況ですよね。
だからnoteって自分らしさを求めてストレスを抱えた人がトラブルを起こしているように私には見えるんです。
だって、自分らしく生きている人はわざわざ狭い世界のコメント欄という更に狭いコミュニティで対立を産むようなこと言わないですからね。
世間が言うところの自分らしさを求めて生きていくことによって生み出されるのって、SNSでいいねを求める自分の中のモンスターじゃないかと思えてならないんですよ。
本来自分らしく生きるっていうことを大事にしたいのであれば他人からの目線ってどうでもいいと思うんです。
でも、「自分らしく生きる」という言葉に揺れてしまう人の中で、自己顕示欲と切り離して考えられる人ってどれだけ居ますか?
まぁその割合って限りなく低いんです。
そうでなければSNSやる人ってもっと少ないですから。
だから最近思うのは、なんでいろんな人がこんなにも「自分らしく生きる」なんてことを言いたがるんだろう?ってことなんです。
これ多分ね、ぼんやりとしたポジティブワードだからじゃないかな?って思っています。
ポジティブなことって否定しづらいっていうことでまず流行る可能性があるんですよね。
あと、メディア上に出てくる人が基本的に「自分らしく生きる」を体現している人だからです。
そして何よりね、自分らしく生きないことって流石に推奨しづらいじゃないですか。
今の時代、高校まで野球しかやってこなかった自分の息子が大学じゃなくて「音楽がやりたい!」って言いだしたとしたら考え直させるための言葉選びって凄く難しいと思うんです。
将来のキャリアのために親としては大学に進んでほしい。だけどやりたいことをやって生きていきたいと言われたら無下には出来ない。
腹の中では「なんで音楽の成績がずっと3のお前が音楽なんだよ」って思っても、そんなこと面と向かっていっちゃいけないんですよ。子供の可能性を奪い、やる気を削ぐ言葉を掛けることって大罪ですからね。
恐ろしいのは「自分らしく生きる」っていうのは、無意識のうちに自分を甘やかすために使われることもあるということです。
将来のために、自分のためにベターな選択肢があることを分かっていて「自分らしく生きる」ということを盾に困難な道から逃げる時に使われることもあります。
ただ、「自分らしく生きる」っていうことがあまりにも氾濫しすぎていて、困難から逃げている自分にさえ気づかないとしたらもう手のつけようがありません。
前者であれば自分らしく生きる道とそれ以外の道を天秤に掛けて損得という軸で考えることだって可能ですけど、「自分らしく生きる」っていうことを刷り込まれてしまっていたら損得というテーブルにさえ座れないですから。
自分らしく生きられたらいいとは思います。
ただ、それが出来る人は限られています。
あと、自分らしく生きる選択をする人は多いということはね、競争率が高いということを意味しています。
更に言えば、定員の数がわずかなところに成り手が多いので「超買い手市場」なんですよね。
つまり、仮に仕事にできたとしても安く働かされてしまう。それは私がライティングの仕事をして痛感しています。
どんなに単価が低くても、名前が売れるだろうし、将来の自分が掴む仕事の量を考えたらここは絶対に受けておくべきだ、っていう判断になってしまう。
そしてそれを先方も見透かしている。
まぁ業界的に厳しくて単価を下げているという側面も当然あるんですけど、誰も受けなかったら単価上げざるを得ないですからね。
私は兼業というスタンスで生活は別のところで担保しながら生きている立場だから「自分らしく生きる」と「自分らしく生きない」の兼業でもあるんです。
両方やってみて気づいたのは自分らしく生きないことの方がはるかに楽だっていうことなんです。
「自分らしく生きる」を貫こうとすると生活苦という恐怖に直面することになります。
本を書いても30万円も入らないという状況下で今と同じ暮らしをしようとしたら年間何十冊書かなきゃいけないのでしょうか。
そんなに仕事なんて来ないんですよ。
そして仮にワーキングプアとして馬車馬のように書き続けて生活することになったとして、そんな自分は果たして自分らしいのでしょうか。
やりたいことが出来ることは「自分らしく生きる」ことでもあるのかもしれないですけど、収入もある、仕事の量も丁度良い、プライベートも充実している、そしてSNSで沢山いいねが付くみたいな像を想像すると面食らいますからね。
あのね、「自分らしく生きる」っていう中で全てを満たすなんていうことは本当に難しいんです。
やりたくないことを排除しようとしてやりたい仕事を選べば生活面が成り立ちにくいし、やりたくない仕事を選べば心がすり減るところが出てくる。
そんなこと誰も教えてくれないですよ。私だってやってみて初めて知りましたからね。テレビの出演料ってこんなに安いの!?って。
だけど世間は「自分らしく生きる」っていうぼんやりポジティブを良き事として喧伝している。
「自分らしく生きる」ことがどれだけ大変かを伝えることなく。
私が皆さんにお伝えしたいのは、「自分らしく生きる」っていうのは自分らしく生きないよりもはるかに困難で、不安で、疲れてしまうということ。
それでも「自分らしく生きる」ということを優先させられる意思のある人だけが将来を切り開ける世界だと思っています。
それが身の丈に合った「自分らしく生きる」であればいいと思うんです。
ただ「自分らしく生きる」っていうのは地に足を付けた生き方ではないところを指すことの方が大多数で。公務員として生きることを「自分らしく生きる」って表現する人なんていないじゃないですか。
やりたいことだけをすることが「自分らしく生きる」なのだとすると、世の中の大半の仕事は殆ど該当しなくて、傍目に遊んでいるようにさえ見えるようなものが「自分らしく生きる」になりますからね。
だからね、「自分らしく生きる」っていうことにあこがれる人はとりあえず逃げ場がある状態でやってみればいいと思うんです。
そして自分の身の丈を知ればいい。
非凡なものがある人はすぐに頭角を示します。多分これを言うと漫才の錦鯉の例を出すと思うんですけど、錦鯉なんて超レアな事例ですからね。
だから個人的には錦鯉とゴッホって本当に罪深い存在だと思います。俺はゴッホだと言われたら否定することなんて出来ないですもん。
長々と語りましたが、まぁとにかく「自分らしく生きる」っていうのは想像以上に大変なんだよってことだけ私の経験談から持ち帰ってもらえたらと思います。
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