
【翻訳・政治哲学】ジュディス・シュクラー「恐怖のリベラリズム」
①何らかの特定の形態のリベラリズムを分析し始めることができる前に、われわれは確実に、その言葉が何を意味するのかということを出来るだけ明確に述べなければならない。というのも、非常に長年にわたるイデオロギーの対立のなかで、リベラリズムという言葉は完全に同一性を失ったように見えるからである。濫用と過剰拡大のためにこの言葉は余りに不定形になってしまい、今では侮辱であれ賞賛であれ、ありとあらゆる目的に使える言葉として役立ちうる。この混乱の状態に適度の秩序をもたらす為に、われわれは次のように主張することから始めてもよいだろう。つまり、リベラリズムは政治的な教義を指すのであって、様々な形態の啓示された宗教や他の包括的な世界観によって伝統的に与えられてきた人生についての哲学を指すのではない、と。リベラリズムは唯一つの全てに優先する目的を持っている。すなわち、個人の自由を行使するために必要な政治的諸条件を確保することである。
②すべての成人が、恐怖や依怙贔屓なしに、他の全ての成人のもつ同様な自由と両立する限りにおいて、自分の人生の多くの側面について、多くの効力のある決定を下すことができるべきである。この信念はリベラリズムのもつ本来の唯一正当と認められる意味である。これは政治的観念である。というのも、つねに自由を抑圧して来た恐怖と依怙贔屓は、公式にであれ非公式にであれ、圧倒的に政府によって引き起こされるからである。そして社会的抑圧の源は実に極めて多いが、そのどれひとつとして、近代国家の代理人として物理的力と説得の独自の資源をほしいままに持っている者たちが有する命を奪うほどの効果を持つものはない。
③他者の自由の妨害を禁止することを別にすれば、リベラリズムは、どのように人々が生活を送るべきか、あるいは彼等がどんな個人的な選択を行うべきかについて如何なる特殊な積極的な教義も持っていない。それは、非常に多くのリベラリズムの批評家たちが主張するのとは違って、近代性と同義ではない。近代性は非常に明快な歴史的概念というわけではない。一般的に、近代性は単にルネサンス以来起こったこと全てだけを指すのではなく、自然科学、科学技術、産業化、懐疑主義、宗教的正統性の喪失、魔術からの解放、ニヒリズム、原子論的個人主義の混合物を指しているのである。これは決して完璧なリストではないが、近代性という言葉は絶望の世紀を意味し、リベラリズムはその最も特徴的な政治的表明であると信じている者たちによって理解されているような、近代性の主な特徴をカバーしている。
④この種の言説の史料編纂あるいは事実の妥当性の質についての議論に加わる必要は決してないが、政治理論を研究する者にとっては少なくとも一つの点が注意されなくてはならない。それは、リベラリズムは理論上においても実践上においても最近200年余り、きわめて稀であったということである。特にヨーロッパ世界が地球上でひとびとが居住する唯一の場所ではないことを思い起こすならばなおさらそうである。これまで誰一人、東ヨーロッパの政府をいついかなる時にもリベラルであると描くことができた者はなかっただろう。第一次世界大戦後、ほんの少しの間、そういったリベラルな方向に向けての乏しい努力をしてはいるけれども。中央ヨーロッパにおいては、リベラリズムは第2次世界大戦後になって初めて制度化されたのであって、我々が忘れたら自分たちを危機におとしいれるような戦争の勝利者によって押し付けられたのである。どのような見せかけであれ、ファシズムは死にたえ、過ぎ去ったと考える者は誰もが、もう一度考え直すべきである。フランスにおいては三つの共和政の下でのリベラリズムは明滅を繰り返し、今になってようやくほどよく安定している。とはいえ、今だに深刻な試練に立たされているのであるが。イギリスではリベラリズムは最も長期にわたる政治的成功を収めてきたが、イギリスが最近まで支配していたアイルランドを含む広大な地域においてはそうではなかった。最後に、次のことを忘れないでおこう。アメリカ合衆国は南北戦争終結までリベラルな国ではなく、その後でさえしばしば名ばかりのものだったということを。要するに、リベラルな時代について話すことは、1914年以降に起きたことと対比する場合を別にすれば、実際に起きた何ごとをも指していない、ということになるのである。
⑤政治思想の状態は、支配的な政府の状態と同じく、リベラルではなかった。とりわけフランス革命が終わった後の数年の間はそうであった。そして、ジョン・ポーコックが我々に力強く思い出させた極めて反リベラルな革命前の共和政の伝統を我々は忘れるべきではない。どんな場合でも、カトリックの権威主義、ロマン主義者のコーポラティズム(身分制的職能団体)に寄せる郷愁、ナショナリズム、人種主義、奴隷制支持、社会的ダーウィニズム、帝国主義、軍国主義、ファシズム、ほとんどの種類の社会主義といった、前の世紀(19世紀)において政治的観念の争いで優位を占めたものの真っ只中で、リベラルなイデオロギーの広大な流れを見つけることは難しい。この時期を通じてリベラルな思想の潮流は存在したが、それが有力な知的な声であることはほとんどなかった。ヨーロッパを越えた世界ではその声は全く聞かれなかった。この声がアメリカ合衆国において力強さを持ったのは、黒人たちが社会のメンバーとして見なされていない場合に限られる。
⑥それでは、過去の数世紀にわたる知性の歴史の実際の複雑さを考えると、何故、近代性とリベラリズムといわれているものについてのこれほど多くの安直な一般化が存在するのだろうか。その理由はごく単純である。つまり、リベラリズムの様々な起源は宗教改革後のヨーロッパにあるのだから、リベラリズムは新参者である、ということである。こうした起源はキリスト教内部における教義的な正統性の要求と慈善の要求の間の、すなわち信仰と道徳の間の極度の緊張関係に存するのである。宗教戦争の残虐行為は、多くのキリスト教徒たちを、教会の公的政策から離れさせ、寛容さをキリスト教徒としての慈善の表現と見なす道徳へと方向転換させる効果を持った。例えば、カルバン派の中のセバスチャン・カステリョのことを考えてみればよい。また、葛藤する精神的な衝動に引き裂かれて、残酷さと狂信を人間の悪徳の最上位に置く懐疑論者になった者たちもいた。その中では、モンテーニュが最も著名である。いずれにしても、個人は、聖なる良心を担う者であれ、残酷な行為の潜在的な被害者であれ、公的な抑圧の侵害から保護されるべきである。
⑦その後、良心と神の間の結びつきは断ち切られたが、信念や知識や道徳に関する個人の決定の不可侵性は、今なお次のような本来の根拠によって擁護されている。つまり、我々がそのような不可侵性を負っているのはお互いに相互の敬意の問題としてであり、強制された信仰はそれ自体として誤りであって、服従を強要するために使われる脅迫と賄賂は本質的に屈辱的である、という根拠によって擁護されている。個々人は自らの生において最も重要である問題、すなわち宗教上の信仰について、公的な権威からの干渉を受けずに、自分自身の選択をしなければならないと主張することは、まさにリベラリズムに向かう大幅な進歩である。私が思うに、それはリベラリズムの歴史的発展の核であるが、原理に基づいた寛容さを政治的リベラリズムと同等のものであると考えるのは間違いであろう。制限をうけた責任ある政府は、個人の自律の主張のうちに含まれているかもしれないが、そのような制度(公的機関)への明白な政治的コミットメントなしには、リベラリズムは教義的に不完全なままである。モンテーニュは確かに寛容で人道主義者であったが、リベラルでは全くなかった。モンテーニュとロックの距離はそれに対応して大きい。それにもかかわらず、リベラリズムの最も深い基礎である場所は、最初から、もっとも早く寛容さを擁護した者たちが抱いた確信のうちにある。すなわち、恐怖のなかから生まれてきた確信、残酷さは絶対的な悪であり、神や人間に対する侮辱であるという確信である。こうした伝統からこそ、政治的な恐怖のリベラリズムは生じてきたのであり、我々の時代の恐怖の只中にあって、重要性を持ち続けているのである。
⑧勿論、プロテスタントの型であれカトリックの型であれ、依然として良心を最上位におくことに打ち込んでいるリベラリズムの多くの類型が存在する。ジェファーソン流の権利のリベラリズムも存在し、これは別の基盤を持っている。また、エマーソン流の自己啓発の探求は独自のリベラルな政治的表現を持っている。リベラリズムは原理上、特定の宗教的ないし哲学的思想体系に依拠する必要はない。寛容さを拒否しないものである限り、それらの思想体系の中から選ぶ必要はなく、この点に、ホッブズがリベラリズムの父でない理由がある。公的な権威に彼等が適当と思う信念や更には語彙さえも市民に押し付ける無条件の権力を与えるような理論は、ほんのわずかでさえリベラルであると記述することはできない。リベラリズムに対してなされた全ての反論の中で、最も奇妙なものは、リベラル派は個人の自由に対して、あからさまに敵意をむき出しにしているのではないにせよ、本当のところは無関心である、というものである。こうした反論は、『リヴァイアサン』をリベラルな哲学の原型そのものであるとする奇妙な同一視から導き出されるのかも知れないが、それは、どんな社会契約論でも(権威主義的志向があろうと)、またどんな反カトリックの議論でも、リベラリズムにつながると単純に言い切るような、実にお粗末な誤った叙述である。
⑨リベラリズムの起源を絶対主義の理論の中に見出すことを強く主張するリベラリズムの入り組んだ系譜はそれ自体では興味深いものではない。もっと一般的なのは、一種の自由な観念連合であり、それは伝統的な啓示宗教を脅かすものを寛容さのうちに認め、したがってリベラリズムは必然的に無神論で不可知論で相対主義でありニヒリズムであると想定する。こうした数々の非難の一覧表は言及する価値がある。というのも、この一覧表は陳腐なものであるからであり、またそれは簡単に有効に論破されるからである。そもそもの間違いは、心理学的な類似性を論理的な帰結から区別できないことにある。結果として、これらの批判者たちは、次のことを掴めていない。すなわち、厳密な意味での政治理論としての恐怖のリベラリズムは必ずしも何らかの1つの宗教的あるいは科学的教義とつながるものではない(心理学的に他の教義よりも或る教義と協調的であるとしても)ということである。恐怖のリベラリズムは、個人の範囲と公共の範囲の間の違いを少しも認識しない政治的教義だけは拒否しなければならない。公共の官職に対するこれ以上減らせない限界としての寛容さの卓越性のために、リベラル派はいつもそのような境界線を引かなければならない。この線は歴史的に永久に続くあるいは変更不可能な境界線ではないが、この境界線からは、全ての公共政策においてこの区分は考慮されなくてはならず、公共政策は最も厳しい現在の基準を満たすような仕方で意識的に守られなくてはならない、ということが要請されるのである。
⑩リベラリズムにとって重要な点は、この境界線がどこに引かれるかということよりもむしろ、その境界線が引かれるべきであり、いかなる場合にも無視されたり忘れられたりしてはならないということにある。圧政の限界は、その限界に終わりはないけれども、私的領域への侵害を禁止することから始まる。この私的領域はもともとは宗教的信仰の問題であったが、政府の技術的・軍事的な性格や広く行き渡っている生産的な関係に応じて、信仰の対象やプライヴァシーの意味が変わってゆき、それにつれて、私的領域は変わってきたし、これからも変わり続けるだろう。この境界線は変化して行く境界線であるが、消去可能な境界線ではなく、この境界線のおかげで、リベラル派は非常に広範囲にわたる哲学的および宗教的信念を支持していられるのである。
⑪それ故、恐怖のリベラリズムは必ずしも懐疑主義や自然科学の探究と結び付いているわけではない。しかしながら、リベラリズムと懐疑主義の間には、実際に心理学的なつながりが存在する。懐疑主義は寛容さに向かう傾向がある。というのも、懐疑主義が抱く疑念の中では、周囲に飛び交う(非常に多くの場合、殺意をともなう憤りをあらわにする)競合する諸々の信念のいずれかを選択することができないからである。懐疑論者が隠遁のうちに個人的な平静さを求めても、あるいは、身の回りの対立する党派を宥めようとつとめても、懐疑論者は、広がりつつあるレベルの狂信と教条主義を増強させるようなことは何もしない政府を選好せざるを得ない。その限りにおいて、リベラル派と懐疑論者の間には自然な親縁性が存在する。党派の分裂や似通った党派同士の対立を自由をつうじていかにして終わらせるかということに関する、マディソンの「ザ・フェデラリスト」における議論は、懐疑主義とリベラルな政治が一致する格好の例である。それにもかかわらず、自分たちの特定の信仰を促進するために政府機関の利用を決して頼みにはしないことを選ぶ信仰者たちがつくる社会は、通常は見られないけれども、想像可能である。
⑫懐疑主義の知的な柔軟性は心理的にはリベラリズムにより適合したものであるが、それはリベラルな政治に必要不可欠な要素ではない。極端に抑圧的な懐疑論者によって統治された社会は、例えば、彼等がニーチェの政治的観念に精力的に従うのであれば、容易に想像できる。このことは自然科学に関しても真実である。自然科学は自由の中でこそ最もよく開花する傾向にあり、この点に関しては美術や文学とはまったく異なるが、科学に友好的な独裁制を想像することは不可能ではない。自然科学が理想的に要求する精神の批判的な役割だけでなく、公開性と高度な水準の証拠は、再び科学の内的な生命とリベラルな政治の間の心理的な結びつきを示唆するかも知れない。しかしながら、このことは必然的にそうだということではないし、まして通常そうだということでもない。実際、徹底的に反リベラルな科学者は多く存在する。科学とリベラリズムの同盟関係は、両者とも宗教の猛攻撃を大いに恐れなくてはならなかった当初の時点では、便宜的なものの1つであった。検閲と迫害というこの共通の敵が中止すると、両者の態度の同一性は次第に消えてゆく傾向にあった。科学とリベラリズムは一緒に生まれたものではない。前者ははるかに古い。しかしながら、この2つの主要な違いを消すことができるものは何もない。自然科学は生きて変化して行くが、リベラリズムは何らかの特定の伝統の見方を採る必要はない。
⑬ヨーロッパの過去が自由に対して全く敵対的であり、インド・ヨーロッパの伝統のうち最も古いものがカースト社会である限りにおいて、リベラル派は特定の伝統を拒絶しなければならない。人間を祈る者・闘う者・働く者へと3つに分ける古い分割方式の痕跡をいまだにとどめている社会はリベラルではあり得ない。しかしながら、幾つかの伝統、あるいは殆んどの伝統に背を向けるからといって、知的誠実さの問題として一切の伝統を捨て去らなくてはならないということを意味するわけではない。リベラリズムは自らの願望に敵対しない伝統の中から一つを選ぶ必要はないし、合理的な証明の科学的な基準を満たしていないからという理由だけで、何らかの伝統の主張を本質的に誤りであると見なさなければならないわけでもない。すべては当の伝統の内容と傾向にかかっているのである。明らかに、代議制の政治にはイギリスやアメリカ合衆国の伝統が染み付いている。ボランティアを大事と考える習慣は、多様な伝統に依拠している。これらの伝統が、単にリベラリズムと協調性があるという以上のものであることは確かである。
⑭知的な謙遜さは、恐怖のリベラリズムは全く内容がないということを含意するのではなく、ただ恐怖のリベラリズムは完全に非ユートピア的であるということだけを含意する。その点に関して、恐怖のリベラリズムは、エマーソンが希望の党派ではなく記憶の党派と呼んだものであるといってよい。そして勿論、この点に関して恐怖のリベラリズムとははっきりと異なる他のタイプのリベラリズムも存在する。まず第一に、自然権のリベラリズムというものが存在し、これは或る理念的な前もって確立された規範的秩序を、自然の秩序であれ神の秩序であれ、不断に実現することに目を向けるが、そうした秩序の原理は、公的な保証を通じて個別的な市民の生活の中で実現されなくてはならない。我々が自分自身を守るのは神の意志であり、我々が自らの生命、自由、財産やそれらに関連するもの全てにおいて保護されていることを確かめるのは、我々自身と我々の社会の義務である。こうした目的のために、我々は保護をおこなう公的な機関を設立する義務と、我々が相互に主張をなす機会をそれらの機関が与えることを要求する権利とを持っている。
⑮もし我々が権利というものを真剣に捉えるならば、『独立宣言』においてみられるような原理が我々の公共的な生活のあらゆる側面において効果的であるように注意しなくてはならない。もし政府の機関がただ一つの最も重要な機能を持つとするならば、それは個々人の権利が実現されるように注意を払うことである。というのも、神もしくは自然の被造物としての我々の完全無欠性がそのことを要求するからである。ひょっとすると、完全な社会、あるいは最善の社会は権利を主張する市民だけから構成される、と主張する者もいるかも知れない。それ故に、すべての場合において、自然権のリベラリズムは政治を、法律によって保証された自らの目的をより高次の法と調和させながら積極的に追求する市民たちの問題として見なしている。政治のパラダイムは裁判所であり、そこでは公平な規則や決定は、個別の市民たちが相互に個別的に持ったり、政府やその他の社会的に権力を有する機関に対して持った、可能な限り最大多数の要求を満たすためにつくられる。自然権のリベラリズムが思い描くのは、政治的にたくましい市民たち、すなわち各人が自分と他者のために立ち上がることができ、かつそうした意志をもつ市民たちから構成される公正な社会である。
⑯同様に希望[の党派]の傾向があるのが、個人的発展のリベラリズムである。このリベラリズムが論ずるところによれば、自由は社会の進歩にとってばかりではなく、個人の進歩にとっても必要不可欠である。我々に自らが有する潜在能力を最大限に活用する自由がないのであれば、我々はそのように潜在能力を最大限に活用することは出来ない。そして、我々が自らの行動の方針を選択する機会をもたないのであれば、道徳は不可能である。また我々の精神が言われたことを自由に受け入れたり拒絶したりし、きわめて多種多様な対立する意見を自由に読んだり聞いたりすることができないのであれば、教育から利益を得ることもできない。道徳と知識は自由で開かれた社会の中でしか発達できない。学習に関わる制度が最終的には政治と政府にとって代わるようになると期待する理由すらある。こうした二つの形態のリベラリズムがそれぞれロックとジョン・スチュアート・ミルとをスポークスマンとしていると言っても不当ではないだろう。そして、それらの二つのリベラリズムは勿論、リベラルな教義の完璧に真正の表現なのである。しかしながら、リベラリズムに関するこの二人の守護聖人のどちらにしても、説得力ある仕方で展開された歴史的記憶を有していないと言わなければならない。そして、まさにこの人間の精神の能力にこそ、恐怖のリベラリズムは大いに依拠しているのである。
⑰現在、もっとも直接的な記憶は、1914年以来の世界の歴史である。ヨーロッパや北アメリカでは、拷問は政府の慣行から徐々に取り除かれてきた。そして、拷問は最終的には至るところでおこなわれなくなるだろうという希望があった。戦争行為の勃発とともに急速に発達した、国家間の交戦状態が諜報活動と忠誠を要求するようになると、拷問は復活し、それ以来とてつもない規模で増大してきた。我々は「二度と繰り返しません」と言うけれども、たった今、どこかで誰かが拷問されており、刺すような恐怖がふたたび、最もありふれた形態の社会統制になってきている。さらに、現代の戦争がもたらす(身の毛もよだつ)恐怖も、忘れさせないためにこれに付け加えられなくてはならない。恐怖のリベラリズムは、これらの否定し難い現実に対する応答であり、したがって、それは被害(を受けない)対策に焦点を合わせる。
⑱統治と呼ばれる軍事力・警察権力・説得の力が不均等に存在するのが避けられないとすれば、常に恐れることが数多く存在するのは明らかである。したがって、自由の恩恵を祝福するよりも、自由を脅かす専制政治と戦争の危険を考慮したくなるひとがいるかもしれない。このリベラリズムにとっては、政治的な生活の基礎単位は、論証的かつ反省を行う人々ではなく、友と敵でも、愛国的な兵士—市民でも、精力的な訴訟当事者でもなく、弱者と強者である。そして、このリベラリズムが確保しようと望む自由は、権力の濫用から免れる自由、弱き者と強き者の間の違いがもたらす無防備な者への脅迫から免れる自由なのである。こうした懸念は、注意をもっぱら全体主義という観念に絞り込む、強迫観念のようなイデオロギーと混同されてはならない。これは、制度化された極端な暴力だけを手短にあらわす表現であって、ほとんど、それほど徹底して破壊的ではない暴力は我々の関心事になる必要が全くないということを含意している。
⑲それどころか、恐怖のリベラリズムは、あらゆる政治体制における公権力の濫用にたいして、平等に戦慄を覚えながら注意を払う。このリベラリズムは政府の全てのレベルにおける官職についている者の行き過ぎを憂慮し、これらの者たちは貧しく弱い者にもっとも重く荷を負わせることになりがちであると想定する。貧しい者の歴史を様々なエリートの歴史と対比してみれば、この点は十分に明らかになる。この想定は、政治史をひもとけば頁をめくるごとに十分に正当化される想定なのだが、政府の役人の中には、妨げられない限り、小規模な仕方であれ大がかりな仕方であれ、大抵の場合、法律を無視しかつ残酷に振る舞う者がいるのである。
⑳こうした考察によって鼓舞されるリベラリズムは、アイザイア・バーリンのいう消極的自由と確かに似てはいるが、まったく同じというわけではない。バーリンの、「強制されない」という意味での消極的自由と、「開かれた扉」という後期のバージョンは、概念上の純粋さが保たれており、「自由の条件」すなわち個人の自由を可能にする社会的・政治的制度から切り離して考えている。それがまったく必要不可欠なのは、消極的自由がバーリンのいう「積極的自由」、つまり高位の自己が低位の自己から自由であること、と完全に区別されなくてはならない場合である。更に言えば、消極的自由のこうした明確な区分が、我々を脅迫するような反対物へと導きかねないような滑りやすい坂を回避する最善の手段である、ということも否定できない。
㉑それにもかかわらず、消極的自由と、それを可能とする為に少なくとも必要である条件とを区別しないことについては多くのことを語る余地がある。制限をうけた政府と、不均等に分立された政治権力の統制が、それなしでは政治的に組織されたどんな社会であっても、自由が想像できないような最低限の条件を構成する。それは十分条件ではないが、必要不可欠な前提条件である。公的な脅迫や私的な脅迫がはびこっている政治秩序においては[選択の]扉は開かれておらず、このことを避けるためには、複雑な制度体系が必要となる。消極的自由がとにかく何らかの政治的な重要性を持つとするなら、その自由は比較的自由な政治体制が持つ制度的な特質の少なくとも幾つかを具体化しなくてはならない。社会的にいえば、そのことは、政治的な力を備えた多数の集団の間で権力が分散しているということ、つまり多元主義を意味している。更に言えば、人々を抑圧的な慣行にさらしてしまうような形態・度合いの社会的不平等を除去するということを意味してもいる。さもなければ、「開かれた扉」は隠喩になってしまうし、それは政治的には、まばゆいばかりの光をもたらす隠喩ではない。
㉒更に言えば、バーリンのいう消極的自由が依拠する道徳理論を受け入れる特別の理由は何もない。これは、本質的にいって両立不可能な様々な道徳が存在し、我々はその中から選択しなくてはならないのだが、これらの道徳は一つの共通基準を引き合いに出すことでは調停されえない−異教主義とキリスト教がその二つの最も明瞭な例である−、という信念である。このメタ政治的な想定がもつ真理がどのようなものであっても、リベラリズムはそれをなしで済ませることができる。それどころか、恐怖のリベラリズムは道徳の多元論に依拠しない。確かに、このリベラリズムは全ての政治的に活動する者が獲得しようと努力すべき〈最高善〉を提供しはしない。だが、恐怖のリベラリズムが〈最高悪〉から出発しているのは確かである。〈最高悪〉とは、我々皆が知っており、出来れば避けようと望んでいる悪のことである。その悪は、残酷さであり、この残酷さが引き起こす恐怖であり、恐怖そのものについての恐怖でもある。その限りにおいて恐怖のリベラリズムは、歴史的にみれば必ずそうであったように、一種の普遍的な要求を、とりわけ世界市民としての立場からの要求を掲げる。
㉓ここで、残酷さということで何が言われているのか。それは、より弱い者や集団に対して、より強い者や集団が、自らの有形無形の何らかの目的を達成するために、意図的に物理的な苦痛、二次的には感情的な苦痛を加えることである。それはサディズムではない。もっとも、サディスティックな個人は、自らの衝動を心ゆくまで満喫するのを許すような権力のある立場を占めようとして群がるかも知れないが。しかし、公的な残酷さは時々の個人的な嗜好ではない。この残酷さを可能にしているのは、公権力の様々な違いであり、公的な残酷さはほとんどの場合、全ての政府が自らの本質的な機能を果たすために依拠せざるを得ない強制の体系の中に組み込まれている。最小レベルの恐怖はどんな法体系にも含まれており、恐怖のリベラリズムは、公的で強制的な政府の終焉を夢見るものではない。恐怖のリベラリズムが取り除こうと望んでいる恐怖は、恣意的で、予期せざる、不必要な、抑制のない強制力を持つ行為や、どんな政治体制においても軍事上・準軍事上および治安上の代理者によって実行される習慣的かつ広範囲にわたる残虐行為や拷問によって生み出されるような恐怖である。
㉔恐怖については、生理的であるだけでなく、普遍的でもある、と無条件に述べることができる。それは身体の反応であるだけでなく心の反応でもあり、人間に対してばかりか動物に対しても共通する。生きていることは恐れることであり、多くの場合、それは大いに我々の利益になる。というのも、警告はしばしば我々を危険から守るからである。我々が恐れる恐怖とは、他人が我々を殺し、重傷を負わせることで我々に与えられる苦痛に関するものであり、回避できる苦痛を我々に警告する自然で健康的な恐怖ではない。更に、政治的に考えるならば、我々は自分自身だけではなく、我々の同胞である市民をも同様に恐れている。我々は、恐怖を抱く人々からなる社会を恐れているのである。
㉕組織的な恐怖は、自由を不可能にする条件であり、この恐怖は他ならぬ制度化された残酷さを予期することによってかき立てられる。しかしながら、私が「残酷さを第一に考えること」と呼んだことは政治的リベラリズムの十分な基礎ではない、と言っても正当だろう。それは単に第一原理、つまり十分な観察に基づいた道徳的直観の行為であるに過ぎない。リベラリズムは、とりわけ現在では、この第一原理を土台として打ち立てられうる。組織的な残酷さに対する恐怖はきわめて普遍的であるので、それを禁止することに基づいた道徳的な主張は直接的に訴えかける力を持ち、議論を尽くさなくても承認が得られる。しかし、これや他のどんな自然主義的誤謬にも依拠することはできない。リベラル派が主要な悪としての残酷さから出発できるのは、ほとんど全ての人が残酷さを恐れ、出来れば逃れようとするだろうという十分に根拠のある自らの想定を彼等自身が越える場合に限られる。もし残酷さの禁止が普遍化され、人格の尊厳の必要条件として認識され得るとしたら、それは政治的な道徳の原理になりうる。このことは、圧倒的多数の人間が自らの既に知られた欲求や欲望を満たす際に残酷さの禁止が役に立つかどうかを問い尋ねることによっても達成可能であろう。カント主義者も功利主義者もこうした二つのテストのうちのどちらか一つを受け入れることができるだろうが、リベラリズムはこの二つのうちのどちらかを選ぶ必要はないのである。
㉖リベラリズムが要請するものは、残酷さや恐怖という悪を、自らの政治的な実践と指図の基礎的な規範にするという可能性である。回避の規則にとっての唯一の例外は、より大きな残酷さの防止である。だからこそ、どんな政府も刑罰という脅しを用いなければならないのである。もっとも、リベラリズムはこれを不可避の悪と見なし、法律の執行に必要とされる最小限の恐怖に恣意性が加えられないように、範囲を制御されかつ法的に執行される公平さの規則によって修正されるべき悪であると見なしているのであるが。こうした定式化が何ごとかをカントの法哲学に負っていることは明白であるが、恐怖のリベラリズムは彼(カント)やその他の道徳哲学に全体において依拠しているわけではない。恐怖のリベラリズムは実際には折衷主義であることにとどまらねばならない。
㉗恐怖のリベラリズムがロックに負っている事柄もまた明らかである。すなわち、殺害し、傷を負わせ、教義を吹き込み、戦争をおこなう圧倒的な権力を持ったこの世の政府は無条件に信用されてはならず(「ライオン」)、政府の代理者に抱くどんな信用も深い疑念にしっかりと基づいていなければならないということである。ロックは、公共性・熟慮・公正な手続きという要請にしたがってなされる公共政策や決定を立案したり実行したりできないような弱い政府を支持したことはないし、彼の継承者たちも支持すべきではないだろう。恐れられるべきことは、公的な権限を持つ者とその代理人によってなされる、全ての超法規的な、秘密の、独断的になされる行為である。そして、そのような振る舞いを起こさせないためには、政治権力をたえず分割し、更にそれを細かく分割することが要求される。こうした観点からすると、自発的結社の重要性は、その成員が協同して行う努力に参加することから引き出しうる充足感にあるのではなくて、自発的なものであれ政府に属するものであれ、他の組織化された代理人の主張を抑制し、少なくとも改めることができるような社会的な力と影響力を持った重要な単位となる能力にこそある。
㉘公的なものと私的なものとの分離は、私がすでに注目したように、明らかにここで安定しているとは言い難い。とりわけ、恐怖のリベラリズムが法人企業のような基本的に公的な組織が持つ権力を無視しないのと同様に、そうした権力を無視しない場合には、この分離は安定していない。こうした企業はその性質や権力に関していえば、まるごとそのまま法律に負っており、公的でないのは名称の上でのことでしかない。それらを地域の零細商店と同じ仕方で考察するのは、深刻な社会的言説に値しない。それにもかかわらず、以下のことが留意されるべきである。すなわち、我々が多くの場合、財産を私的なものとして語る理由は、公共政策と法律の問題として財産は個人所有者の自由裁量に委ねられるべきであると意図されているということである。というのも、これが個人の独立を確保するだけでなく、政府が持つ広範な影響力を限定し、社会的な力を分割する上で、絶対に必要不可欠な優れた方法であるからに他ならない。法律によって保証された所有権ほど、個人に、より大きな社会的資源を与えるものはない。それは無限定のものではありえない。というのも、こうした所有権は第1に法の被造物であるからであり、また或る公的な目的すなわち権力の分散に役立つからである。
㉙強制の手段が手元にある場合には、主として雇用し、賃金を支払い、解雇し、価格決定をするという経済的な権力の行使を通してであれ、あるいは様々な形での軍事力の行使を通してであれ、官職についているか否かにかかわらず代理人がどんな人に対しても脅すことが出来ないように見張ることが、リベラルな市民の仕事である。もっとも、十分に理解され、受け容れられた法的な手続きの行使を通した場合は別であるが。更に、その場合であっても、強制を行う代理者は常に守りの体制にあるべきであり、私的な犯罪者がもたらすより苛酷な残酷さと恐怖という脅迫に対する応答としてのみ弁解可能な、バランスのとれた必要不可欠の行為に限定されるべきである。
㉚恐怖のリベラリズムは、予測可能な悪の回避に焦点を当てている点で徹底して帰結主義的であると思われても十分に理由がある。政治的な慣行への手引きとしてはその通りであるのだが、恐怖のリベラリズムは倫理に関する指図を一般に提供するようなどんな傾向も避けねばならない。市民に幸福を追求せよと言ったり、そればかりかその(幸福という)全く捉えどころのない状態を定義せよとまで申しつけることに、どんな形態のリベラリズムもかかずらわない。例えば、義務のため、あるいは救済のため、あるいは受動性のために、幸福を追い求めたり拒絶したりするのは、我々一人ひとりなのである。リベラリズムは自制して、政治と、権力の潜在的濫用者を制約する提案とに活動範囲を制限しなければならない。それは、恐怖と依怙贔屓という重荷を成人の女たち・男たちの肩からおろし、他人が同じように行うのを妨げない限りで、彼等が自らの信念と選好にしたがって生を営んでゆくことができるようにするためにである。
㉛恐怖のリベラリズムに対するよく知られた異論が幾つか存在する。恐怖のリベラリズムは「還元主義的」と呼ばれるだろう。というのも、恐怖のリベラリズムは道徳的もしくはイデオロギーに関する切望よりも、何よりもまず、通常の人間の身体的な苦痛や恐怖に基礎を置いているからである。リベラリズムは、政治を、行政、経済、心理学へと同化させはしない。したがって、この意味での還元は行っていない。しかし、リベラリズムは共通の直接的な経験に基礎を置いているので、政治を人類の最も高貴な野望と同一視する者の感情を害する。もちろん、何が高貴なものとみなされるべきかは大いに論争を呼び起こすものであるが。
㉜恐怖のリベラリズムを人々の見識を低めるものだと呼ぶことは、感情は思想よりも、とりわけ政治的大義よりも劣っている、ということを含意する。イデオロギーに関する野心を追求したり、「大義」のために命を賭けるのは高貴であるかも知れないが、自分自身の「大義」を追求して、他の人間を殺すことは高貴であるとは限らない。「大義」は、いかに精神的なものであろうとも、自己正当化するものではなく、全て平等に徳性を養うものでもない。どんなに人に訴えかける力を持った大義であっても、それらが脅迫や賄賂によって他者に押し付けられる場合には、拷問の道具か拷問を行うための卑怯な口実であるに過ぎない。我々がお互いを、何はともあれ苦痛を感じる存在として受け入れることができ、身体的な幸福や寛容さは、我々の中の一人ひとりが追求しようと思う他の目標よりも単に劣っているわけではないということを理解することができるようになったとしたら、我々が人に危害を加えることははるかに少なくなるだろう。
㉝死と死ぬことの中で高められるものは絶対に何も存在しない。もし存在するのだとしても、それらを奨励し促進し強制することは、公的な権威の仕事ではない。いまだに彼等は行っているが。自己犠牲は我々の賞賛を呼び起こすかも知れないが、定義からして、政治的義務ではなく、政治の領域に入らない義務以上の仕事に基づく行為である。身体的な経験に対する軽蔑から始めない限り、恐怖や残酷さの回避を基礎にして政治的な秩序を打ち立てることに関して「還元的な」ところは何もない。更に言えば、政治的な精神性がもたらす様々な帰結は、思われるほど高揚感をもたらすものでは到底ない。政治的にみれば、それは通常、凄まじい破壊を行う言い訳として役立って来た。あの真に高貴な叫び声「死よ、万歳!」と、この叫び声が前触れとなった政治体制を誰かに思い起こさせる必要があるだろうか。
㉞恐怖のリベラリズムに対する関連する異論に、このリベラリズムが真正の人間理性にとって代わって「道具的合理性」を置いている、というものがある。前者[真正の人間理性]の意味は通常、不明確なままにされているが、原則としてそれはプラトン流のイデア論の一つのバージョンではない。「道具的合理性」とは、自らの目的や結果の合理性や他の可能性がある価値について何も問うことなく、効率性もしくは手段・目的の計算だけを追求する政治的実践のことを指している。恐怖のリベラリズムは極めて明確な目的、つまり恐怖と残酷さを減らすことという目的を持っているので、そういった種類の議論は全くの見当違いであるように見える。
㉟より説得力があるのは、「道具的推論」は手続きに全幅の信頼を寄せているが、そういった手順に参加し、フォローする者がおこなう行為や言説の合理性に対して適切な注意を払っていない、という見解である。「道具的推論」は合意を生み出し、公平さを確保する仕組みを信頼するが、個々の市民の性格や全体としての社会の性格について何等の注意も払っていない。たとえ法の支配のもとにある多元的な政治体制が自由で比較的平和な社会を生み出すことになるとしても、その体制が市民の能力を引き出し本物のレベルの政治的理解に到達させ、それとともに自らの集団の中での生活において主人公である能力を授けているのではないとすれば、その社会は本当の意味で合理的ではないだろうし、倫理的では全然ないだろう。こうした社会は、手続きと結果に注意を払う恐怖のリベラリズムとは異なる仕方で、「実質的に」合理的なものだと見なされる。しかし実際のところ、その議論は合理性に関するものでは全然なく、ラディカルな社会変革とユートピア的な野心の予期に関するものである。「道具性」という非難は、もしそれが何ごとかを意味するのだとしたら、結果的に、ユートピアの冒険の代価を支払いたくない者、とりわけ他の人々によって発明されたものの代価を支払う気など毛頭ない者に対する軽蔑に行き着く。「道具性」[つまり、恐怖のリベラリズム]は、どれほど合理的であっても、何らかの理想を追求して他人を犠牲にする危険を冒すことを拒絶するのである。
㊱公正な手続きと法の支配に基づいた政治の経験が間接的に市民の教育を行うということは否定し得ない。もっとも、それは純粋に政治的であるような公然の目的ではないけれども。忍耐、自制、他者の主張に対する敬意、警戒といったものの習慣が作る社会的な規律の形式は、個人の自由と唯一完全に両立できるものであるが、社会的にも個人的にも価値が認められる特質を奨励するものである。このことは、強調されるべきことに、リベラルな国家が、特定の種類の性格を作り出すことを目指し自らの諸々の信念を強制するような教育的な政府を常に持ち得るのだということを含意しはしない。リベラルな国家がそのような排他的で本質的に権威主義的な仕方で、教訓的な意図を持つことは決してあり得ない。既に見たように、リベラリズムはまさに教育的な国家に反対するためにこそ始まったのである。しかしながら、どんな統治システムも、どんな法的な手続きのシステムも、どんな公教育のシステムも、心理的な効果なしでは存在せず、したがってリベラリズムは、手続き上の公平さや責任ある政府が奨励する可能性のある傾向や習慣について弁解する理由は全くない。
㊲もし市民が個人として、また結社の中で、とりわけ民主主義の中で行為し、政府の不法行為や権力の濫用のどんな徴候にも抗議し、それを阻止しようとするのであれば、効果的に自己を主張する道徳的な勇気と自己信頼と粘り強さを公平に分かち合わなければならない。広い見識を持ち、自律した成人を育成することは、リベラルな社会に属する市民を教育する全ての努力の目標でなければならない。完全にリベラルな社会というものが多少なりともどのように見えるかについては、非常に明確な説明が存在する。それはカントの『徳論』のうちに見ることができるが、この本は、恩着せがましい態度をとらず、尊大に振る舞わず、卑下せず、恐怖を抱くことなく、他の人々に敬意を払う人格が備えている気質について、きわめて詳細な説明を行っている。彼や彼女は噓や残酷さで他人を侮辱することはしないが、噓や残酷さのどちらも、その犠牲者を傷つけるだけでなく、その人自身の性格を損なうものである。リベラルな政治の成功はこのような人々の努力にかかっているが、彼等を単に人間的完成のモデルとして育成することはリベラルな政治の仕事ではない。リベラルな政治が要求できるのは、もし我々が政治的自由を促進したいと思うならば、これが適切な行動である、ということだけである。
㊳市民としての権利のためのこうしたリベラルな指図は、普遍性への正当ではない要求を行う、非常に歴史性を欠いた、自民族中心主義的な見解である、と今では議論されることが多い。こうした指図が或る特定の時代と場所で生じたことは、ともかくも、不可避であるのだが、相対主義者は今や次のように論ずる、つまり、恐怖のリベラリズムは伝統的な慣習のもとで暮らしている人々の多くに歓迎されないだろう、たとえこうした伝統的な慣習がインドのカースト制度のように残酷で抑圧的であるとしてもそうである、と。受け継がれてきた慣習を、たとえ或る人々にとっては相容れないものであっても一般的であると称する基準によって裁くことは、偏った原理であるだけではなく、尊大な誤った押し付けであると言われる。というのは、広く一般に妥当する社会的な禁止事項や規則といったものは存在せず、したがって社会批判を行う者の仕事はせいぜい、その社会に内在する価値を分節化することにあるからである。以上で述べたことは全て、土着の慣習を相対主義的に擁護する者たちが我々に信じさせようとする程、自明なものでは全くない。
㊴世界の革命政府ばかりでなく伝統的な政府の殆んどによって傷つけられ侮辱を加えられた犠牲者に向けて、彼等の現状に対する真正の実行可能な代替案を提供することができない限り、またそれができるまでは、我々には彼等が自らの鎖を本当に喜んで受け入れているかどうかを知る術はない。彼等がそのように自らを縛る鎖を喜んで受け入れているという証拠は極めてわずかである。中国人は、我々からすれば政治的及び文化的な距離があるにもかかわらず、我々と同様に、毛沢東の支配体制を本当には好んでいなかった。恐怖のリベラリズムを余りに「西洋的」で、あまりに抽象的であるとして拒絶する、単に文化的であるだけはなく心理的でもある絶対的な相対主義は、きわめて独り善がりで、かつ、きわめて我々の世界の恐怖を忘れてしまいがちであるので、信用に値するものではない。それは、理想であると見なして伝統に屈服するばかりでなく、全ての地域の実践というものを、その地域で心の底から共有されている人間的な強い願望であると独断的に同一視する点からしても、深刻な仕方で反リベラルである。こうした慣習の外に踏み出ることは、相対主義者が主張するのとは異なって、とりわけ横柄で押しつけがましいものではない。どこでもないところからの挑戦と、一般的な用語を使ってなされる普遍的な人間性と合理的な議論の主張だけが、世間一般による吟味と公共的な批判というテストにかけられ得るのである。
㊵全ての部族の境界の内側で広く行き渡っている、語られることのない神聖化された実践が、おおやけに分析されたり或いは評価されたりすることは決してあり得ない。というのも、そういった実践は、定義上すでに共同社会の意識の内部に永久につなぎ止められているからである。全ての実践上の代替案、とりわけ新しく異質な代替案の開かれた公共的な再検討が存在しない限り、責任ある選択はあり得ないし、人民の声とその精神であると主張する政府[当局]をコントロールする方法もあり得ない。その埋め込まれた諸々の規範を宣告する預言者や詩人の尊大さは、どんな義務論者の尊大さをもはるかに上回る。というのも、彼等は隠された民衆の魂を露わにするだけではなく、部族の外部での再検討にさらされない仕方で露わにすると公言するからである。その上、こうした解釈学的優位の主張のあとに続いて、まさに外国人嫌いの熱狂が存在するということは、かなり歴史上の実例がある。ナショナリズムの歴史は励みになるものではない。しかし、最高の状態であっても、民族の相対主義は恐怖と残酷さについて、この二つがあらゆる所でありふれたものであるということ以外は、ほとんど何も言うことが出来ない。現在の核[戦争]の可能性という点ではおそらく違うけれども、戦争もまた常に存在して来た。我々は戦争をそういった理由で擁護しようというのか。現実には、どのような残虐行為がどんな場所でも又どんな時でも耐えられるものであるのかについての最も信頼の置けるテストは、犠牲者になる可能性が最も高い者、最も権力のない者に、特定の時に、制御された条件のもとで尋ねることである。それが行われるまでは、恐怖のリベラリズムが政治的圧制の犠牲者に対して提供するものが数多くあるということを想定しない理由は存在しない。
㊶こうした考察は特に今、恐怖のリベラリズムが「自己」に関する十分な理論を持っていないと非難されがちでもある時にこそ、思い起こされるべきである。互いに大きく異なる様々な自己が存在する可能性は明らかに、どんなリベラルな教義も行っている基本的な想定の一つである。政治的な目標に関していえば、リベラリズムは、似通った身体的および心理的構造を別にすれば、人々が性格において極めて著しい程度で異なっているということを除いて、人間性について何ごとも想定する必要はない。表層的なレベルでは我々は次のように想定せざるを得ない。つまり、自分たちが大事にしている集団の伝統を背負っている人たちもいれば、自分たちの社会的起源や帰属する絆から逃れたいと望んでいるだけの人たちもいるということを。人間の経験のこうした社会的にきわめて重要な側面は、ほとんどの後天的に獲得した特性と同様に、極端なほどに多種多様で、また変化を受けやすい。我々の社会的な役割のすべてを合計しても完璧な「自己」となることはないかも知れないが、社会的な学習は我々の性格の非常に大きな部分を占めている。政治的な目標に関していえば、重要なのは、我々が教育を受けてゆく間に獲得する、独特の性格を持ったこの還元不可能な「自己」ではなく、多くの異なる「自己」が政治的に自由に相互作用するという事実だけである。
㊷より一層共同体的な性格を切望したり、より一層個人主義を拡張するような性格を切望するアメリカの政治理論家達に対して、私はここで、こうした個性が例外的に特権のあるリベラルな社会の関心事であり、また、主要な自由の諸制度が定着するまでは、こうした強い願望は生じることすらあり得ないということを思い起こさせるものを提供したい。確かに、共同体主義者とロマン主義者の両者が自由で公共的な制度をどの程度当然視しているかはアメリカ合衆国に対する賞賛の言葉にはなるが、彼等の歴史感覚に対する賛辞の言葉にはならない。アムネスティ・インターナショナルの年次報告や現代の戦争に関する年次報告を無視する場合には、過去や現在の政治的経験のかなりの部分が蔑ろにされる。世界市民であることや、世界のどんな地域のどんな人種や集団に属する者であってもその者の生命や自由に対する侮辱が本物の関心事となるということが、かつてはリベラリズムの[を特徴づける]印であった。幾つかの国におけるリベラリズムの成功そのものがその国の市民たちの政治的な共感能力を萎縮させてしまったということは胸糞悪い逆説であるかも知れない。それは自由を当然のものとして受け止めることの一つの代価であるように見えるが、唯一の代価であるというわけではないだろう。
㊸リベラリズムは、あれやこれやの「自己」が持つ潜在性がどのようなものであり得るかについての推測には立ち入る必要はないが、既に知られた又現実にある危険を取り除こうと今ここで行動するためには、人々がそのもとで生活している現実の政治的諸条件を考慮に入れなければならない。人間の自由に対する関心は、自らの社会や党派が得る充足感で立ち止まるわけにはいかない。それゆえ、我々は団結を掲げるイデオロギーに対して疑いの目を向けなければならない。というのも、そういったイデオロギーは、リベラリズムに感情面で不満足を感じ、並ぶものがないほどの恐怖をもたらすような抑圧的で残酷な体制を今世紀[20世紀]においても創り出し続けて来た者たちにとって、あまりに魅力的なものであるからに他ならない。こうしたイデオロギーが原子化された市民に対して健全な何ごとかを提供するという想定の真偽のほどは分からないが、その政治的な帰結は、歴史上の記録に照らしてみる限り、疑いの余地はあまりない。コミュニティの内部やロマンチックな自己表出のうちに感情面と人格面での発達を追求することは、リベラルな社会における市民達に開かれた選択肢ではある。しかしながら、共同体主義者とロマン主義者のどちらの主張も、政治に関係のない衝動であり、まったく自己中心的である。せいぜい、それらが政治的な教義として提示される時には、我々を政治の主要な仕事から注意をそらせることになる。そして、最悪の場合には、不運な状況下において、リベラルな実践に深刻な損害をもたらしかねない。というのも、どちらも個人的なものと公共的なものとの間の境界線を引き直しているだけのように見えるけれども-そうした引き直しは、完全に通常の政治的な実践であるが-、どちらか一つでもその提案された方向への転換の含意するものについて真剣な自覚を持っているとは言えない。
㊹恐怖のリベラリズムはアナーキズムに極めて近いと思われてももっともであろう。[だが]それは正しくない。というのも、リベラル派は、もっとも熱烈なアナーキズムの理論家ですら法律の受容可能な代替物として示唆して来た非公式の強制と教育的な社会的圧力の程度に、常に意識を向けて来たからである。更にいえば、アナーキズムの理論に欠陥が少ないとしても、法と政府が崩壊してしまった国々の現実は、我々を勇気づけるものではない。誰がベイルートに住みたいと思うだろうか。リベラリズムのもともとの第一原理、すなわち法の支配は完全に無傷のままであり、これはアナーキズムの教義ではない。法の支配を捨て去る理由はまったくない。これは政府を抑制するための最も重要な道具である。迫害の潜在的可能性は科学技術の進歩と歩調を合わせてきた。つまり、我々は相変わらず、拷問と迫害の道具によって恐れることが多く存在する。権利章典のうち半分は、公正な裁判と、刑事裁判における被告人の保護に関わるものである。というのも、市民が国家の力に直面するのは法廷においてだからであり、それは対等な競争ではないからである。明確な手続き、誠実な裁判官、弁護人を立て上訴する機会というものがなければ、誰にも勝ち目はない。我々は相互の安全に必要不可欠なものより以上の行為を犯罪とするのを認めるべきではない。最後に、法を犯したという廉で犯罪者を単に罰するよりも、むしろ犯罪の犠牲者に賠償を行う法的な努力ほど、リベラルな国家のよさを示すものはない。というのも、彼は何よりもまず一個の人間を傷つけ、震え上がらせ、虐げたのだから。
㊺恐怖のリベラリズムが平等な権利とその法的保護についての強力な擁護を採り入れるのは、まさにこの点においてである。このリベラリズムは、権利は基本的で所与のものであるという考えを自らの基礎にすることはできない。そうではなく、権利とは、まさに市民が自らの自由を保ち、権力の濫用から自分を守るために手にせざるを得ない許可と権利拡張であると見なす。権力の中心が数多く存在し、制度化された権利を備えた、多元主義的な秩序に基づく制度は、リベラルな政治社会を記述したものに他ならない。この社会は必然的に、民主的なものでもある。なぜなら、自らの権利を守り主張する力に関して十分な平等がなければ、自由は希望に過ぎないからである。代議制民主政治が行われず、上訴の可能性に開かれた利用可能で公正な独立した司法組織が存在せず、政治的に活動的な多数の集団が存在しないとき、リベラリズムは危機に瀕している。そのような結果を防ぐことにこそ、恐怖のリベラリズムのねらいの全てがある。したがって、リベラリズムはデモクラシーと結婚したが、その結婚は一夫一婦制に基づき、忠実で、永遠に続くものである—しかし、便利だから行った結婚である、と公平に言うことが出来る。
㊻一般に自由の必要性を説明するには、特定の制度やイデオロギーを引き合いに出すのでは十分ではない。残酷さを一番に考え、恐怖を抱くことへの恐怖を理解し、この二つが到るところにあることを認識しなければならない。政府による抑制されない「処罰」や最も基礎的な生存手段の否定は、我々の身近でも、我々から遠く離れたところでも見られるものであるが、これらは我々を、全ての政府の全ての代理人の実践や、ここも含めてあらゆる場所における戦争の脅威を、批判的な注意力を持って目を向けるという気にさせるだろう。
㊼私の行っていることがチェザーレ・ベッカリーアや、18世紀からの何らかの他の亡命者のように聞こえるとしたら、彼等が政府のやり方について読んだような種類の報告を私も読んで来たからかも知れない。『ニューヨーク・タイムズ』の海外ニュースを見れば十分である。ありとあらゆる場所で、人種差別、外国人嫌い、組織だった政府の残虐行為が広く行き渡っていることについての記事があるのだから。私が理解できないのは、政治理論家や政治的に注意深い市民がどうしてこうしたことを無視することが出来て、しかもそれらに対して抗議しないのかということである。かつて我々がそうしたことを無視し抗議しなかったから、我々は恐怖のリベラリズムに向かって行き、リベラルな思想の中でより気分を爽快にさせるがより緊急性の少ない形態のものから離れて行ったのである。