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RSKテレビ『天空の聖地・高野山 空海の名宝と運慶・快慶』視聴メモ

2年前に観たRSKテレビ『天空の聖地・高野山 空海の名宝と運慶・快慶』の視聴メモ。

空海は『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を書いて出家する。『聾瞽指帰』は出家宣言書。この書は儒教、道教、仏教を学んだ経験からそれぞれ3人の先生がその優劣を論じているというもので、中でも仏教が最も優れていることを記している。この境地に至るまでに空海は学問のみならず四国の山、海、奈良・吉野の山中で修行を積み悟りを開いた。そしてその後、遣唐使として唐に渡り2年間、密教を学んだ。空海が密教の継承者であると認められた証として恵果から授けられた諸尊仏龕(しょそんぶつがん)。

空海が24歳で著した『聾瞽指帰』の冒頭

慶應義塾大学出版会さんの以下の記事も参考まで。

高野山には豊臣家の墓がある。豊臣秀吉は紀州征伐の際、高野山に全面降伏の使者を出し、従わなければ山を全て焼き討ちにすると脅しをかけた。しかしすでに近くの寺が焼き討ちに遭い壊滅したことを恐れた高野山は無条件降伏する(秀吉の命に高野山が従わなかったら、今の高野山の形はなかっただろう)。両者の仲を取り持った僧、木食応其(もくじきおうぼ)への秀吉の信頼は篤く、高野山に領地を与える。さらに秀吉は金堂、大塔を建立した上に、母の菩提のために青巌寺(せいがんじ)という寺も建て高野山を庇護した。青巌寺は今は残っていないが今の金剛峯寺の建物につながる。


金剛三昧院は、尼将軍北条政子が夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した寺。伊予の豪族、河野家との深い縁を示す所蔵品。

日本の仏像制作(武家社会の始まりである鎌倉時代に隆盛を極めた)の最高峰に位置すると言っても過言ではない運慶(快慶の兄弟子、鎌倉時代に発達した“玉眼”の達人と言われる。眼に人間味のある表情)と快慶の傑作、すごい迫力のある像。その繊細で絵画的な美しさはその後の仏教彫刻に影響を与えた。それまでのゆったりした貴族文化ではなく鎌倉時代には武士が台頭してくるので、武士に好まれるように写実主義を出して筋肉質。運慶の八大童子立像は腰を捻って、次の行動を起こそうとしている。静の中の動。静かに佇んでいるが、次の行動を起こそうという動きをしている。

八大童子立像

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