
わずかな違いが、振る舞いに大きな違いをもたらすということ〜尾骨から背骨が始まる感覚が得られたことを通じて〜
本日もヨガに淡々と取り組んだわけですが、身体の状態は特に気になる点があるわけでもなく、すこぶるしなやかな感じでもなく、非常にニュートラルな状態でした。
その中で、今まで感じ取れなかった繊細な感覚を得ることができて、とても新鮮な気持ちになりました。
とあるポーズに挑戦していると、ふとした瞬間に身体が少しばかりゆらぎ、そのゆらぎから立ち直ろうとする最中に「尾骨から背骨がつながっている」ことを、「背骨の起点が尾骨である」ことを感じたのです。
その繊細な感覚が消えないうちに、尾骨を起点にして身体の中心軸を保つこと身体を動かすと、余計な力みが抜けて「あるべき場所に、あるべき身体が収まる」というのか、今までとはまた違う軽さを感じました。
骨や筋肉などが互いにつながりあう身体のように、有機的な事物においては「テコの原理」が働くというのか、本当にわずかな違いが、大きな振る舞いの違いをもたらすのだと感じた一日です。
この文章に続いて、ほかの人に感情を移入すること - 当時は「同感」という言葉で知られた心の働き - の理論を世界で初めて展開していく。スミスは、「ほかの人たちの悲惨な状態に同情する」のは「頭のなかで彼らと立場を入れ替える」ことができる想像力を持っているからだと書いている。私たちは、見返りを求めず、無意識のうちに他者の身になって考えるが、その例をスミスはいくつも挙げている。
ひとり息子を亡くした人に悔みの言葉をかけるとき、その深い悲しみを感じるために、みずからの性格や職業を考慮し、自分にも息子がいて不慮の死をとげたとしたら、どのように嘆き悲しむのが自然だろうなどと考えたりしない。自分がその人だったらどれほど悲しいかと思うだけだ。その人が置かれた状況に身を置くだけではなく、身も心もその人になりきるのだ。つまり、純粋に相手のために悲しむのであり、自分の利益などまったく考えない。どこからどうみても利己的ではないのだ。
人間は他者に感情移入するという実例を引き出すのに、スミスは周囲を見まわすだけでよかった。十八世紀は、利益に飢え競争原理に突き動かされる資本主義が台頭した世紀だが、育児放棄、奴隷制、動物虐待と戦う組織が史上初めて生まれたときでもあった。