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「道を引き返す」という自由〜身体の文脈、自然な方向、そして無為〜

「引き返すという自由」がある。

朝目覚めたての身体は縮こまっていて、伸びやかとは程遠い。

朝早い時間帯にヨガに取り組む際に気を付けているのは、どこかぎこちなく窮屈な身体を無理に、自分の力で伸ばそうとしないこと。

朝日が次第に昇り、ほの明るい部屋が一層明るさを増してゆく中で、重力に身を任せると、自然に「伸びるべき方向」へと身体が伸びてゆく。

「自分で伸ばそう」という意識が入り込むことはなく、無為である。

そして、委ねる中で「自然な方向」が見出されると、時に「自然ではない」という違和感を覚えることもある。

そのような時は「来た道を引き返す」ことが時に大切だと感じる。

最初に戻ってから、あらためて「自然な方向」へと身を委ねる。

自分の身体には、刹那の動きの積み重ねとしての「文脈」がある。

身体の文脈、自然な方向、そして引き返す自由。

進む方向に制約はなく、いかなる方向にも進めるはずなのに「引き返す」という自由が無意識のうちに見えにくくなってしまうのはなぜだろう。

ここで第三の不思議に就いて更に言葉を重ねよう。第三のは平凡なものが平凡のままで非凡にも劣らぬ美しさを示す不思議さについてである。雑器民器がいとも平凡なものであるのは、誰も知り尽くしている事だが、その平凡極まる雑器の中に無上に美しいものが数々現れてくるのだから不思議なのである。さてこれをどう考えたらよいか。普通には非凡な人間の非凡な作でこそ、本当に非凡な美しさを示すのだと思われて了う。所がそんな事情にある者の他に、作る者もその環境も作られる品も用いられる場所も、始めから平凡で普通で、非凡さとは凡そ無関係なものがある。所がそんな低い環境から尚且つ無上に美しい数々の品が現れてくる事は、多くの民芸品が、吾々の目前に提示している事実ではないか。どうしてそんなおかしな事が白昼起ってくるのか。この不思議さを、どう説明したらよいのか。

柳宗悦『仏教美学の提唱』

近世の人々は個人的天才を謳歌して止まぬので、何でも非凡なものを仰ぐ習慣が強められているが、本当の美しさは、そんな異数の世界にのみあるのではなく、平々凡々たる尋常なものの中に、却って深く静かに潜んでいる事が分ってくる。仏法は「平常」とか「無事」とかを説いて止まぬが、異常とか変異とかに本当の世界があるのではなく、平常そのものよりも深い境地はなく、無事そのものよりも健康な状態はない事を明らかにしようとするのである。美に就いても、この考えが反省されてよくはないか。更に別な言葉を用いると、「無事にいる」とか「平常である」とかいう事は、「素直な事」、「ありのまま」の境に在る事に外ならない。異常は波乱であるが尋常は平穏である。

柳宗悦『仏教美学の提唱』
書肆心水オフィシャルサイトより

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