「人と人をつなげるもの」は何だろう?
ナタリー・サルトゥー=ラジュ(哲学者)の著書『借りの哲学』の第1章「交換、贈与、借り」より「<借り>を大切にする社会」を読みました。
テーマは「貸し借りと人間関係」について。一部を引用してみます。
それはともかく、話を元に戻すと、資本主義が<借り>を<負債>に変えることに成功した結果、人々はある意味で、社会のしがらみから自由になった。だが、それと同時に、血縁や地縁を通じて受け継がれてきた「誰かに何かを与え、与えられた誰かがその<借り>を返す」という<借り>のシステムを失うことになった。それはとりもなおさず、「人間関係」を失うということである。
だが、はたしてそれでよいのだろうか? 私たちは<借り>のシステムを - <借り>が表わす「人間関係」や「文化」を切り捨ててしまってよいのだろうか?もちろん、よいはずがない。私たちは、いまこそ<借り>を見直さなければならない。<借り>を見直して、もう一度、社会のなかに取り入れるのである。
しかし、共同体のなかで、私たちはいついかなるときでも、自由で平等でなければならないのだろうか?つまり、自分以外のすべての人に対して、完璧に<貸し借り>のない関係でいなければならないのだろうか?あるいは、<貸し借り>のない関係でいることができるのだろうか?人が自由で独立した存在になる - つまり自立するとは、<貸し借り>のない関係をつくるということだろうか?
「私たちは<借り>のシステムを - <借り>が表わす「人間関係」や「文化」を切り捨ててしまってよいのだろうか?」
この言葉がとても印象的でした。
「人間関係とは何か?」「文化とは何か?」という問いは、「何が人と人をつなげるのか?」「人と人がつながるとはどういうことか?」という問いに言い換えることができるように思います。
では、何が人と人をつなげるのでしょうか?
具体的な「つながりのカタチ」を思い浮かべることから始めてみたいと思います。
「誰かと対話する」
「誰かの作品や文章に触れる」
「誰かの演奏が琴線に触れる」
「誰かから支援を受ける」
「自分が作ったものを相手に届ける・贈る」
「相手を尊敬する」「相手に感謝する」
「何かの契約で互いの責任や義務を定める」
挙げたらキリがありませんが、内発的なつながりもあれば、社会や制度の要請に基づくものもあります。そして「何かを与え・与えられる」という点は共通する軸のように思います。まるで物理でいう「作用・反作用の法則」のようですね。
では、<貸し借り>があると不自由なのでしょうか。
自分ができないことを相手に委ね、互いに支援し合うという<貸し借り>は人を自由にしていく側面があるように思います。
依存の反対は「自立」ではなく「もっと色々なものに依存する」ことではないか。特定の何かに依存するのではなく、依存先を広げていくことで「貸し借り」が分散し、その中で自由が広がっていく可能性があるのではないでしょうか。
「誰かに頼ることができる」自由と、「誰にも頼れない」という不自由。
「人が自由で独立した存在になる - つまり自立するとは、<貸し借り>のない関係をつくるということだろうか?」との著者の問いは、これからの社会をつくっていく上での根幹であるように思いました。