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完璧を手放すということ〜目的と状態の流動性、呼吸、そして自由〜

完璧なものとは何だろう?
完璧を目指すということはどのようなことだろう?

ヨガを始めてからかれこれ10年以上経ちますが、自分に起きた変化の一つは「完璧さを手放したこと」かもしれません。

いくつものポーズに対して、言葉による詳細な説明があり、それを体現するような素晴らしい模範例の数々が写真や動画などで示されています。

初めのうちは模範例のように「もっと曲げたい」とか「もっと伸ばしたい」とか「もっともっともっと…!」という気持ちで、毎回の練習に取り組んでいたのですが、しばらくして「どうして自分はこんなにも身体が動かないんだろう…」などと、自分を卑下するような時期がありました。

ふと、ある日のこと。朝早くのレッスンを受けたときのことです。

朝起きてから時間が経っていないとき、身体が十分にほぐれていないので、怪我をしないように、慎重にヨガに取り組むようにしています。練習が始まると「やっぱり身体がかたいな…」と少しばかりの緊張と、どことなく寂しい気持ちになったのですが、「まぁ、そうだよね。今日は今日で出来る範囲で無理なく取り組もうと」と半ば開き直る瞬間が訪れました。

すると不思議なことに、身体がリラックスして呼吸が深く入るようになり、今までとは全く違う身体の伸びやかさを感じることができたのです。

その時に思いました。大切なのは「一瞬一瞬の変化」であるということに。
今の自分の状態に合わせて取り組み方を変えていい、目標も変えていい。

明確な目標を先に決めて、目標を達成するために最適な方法を選択して、限りある時間のなかで最大限に力を発揮して挑戦する。もちろん、そのような選択も重要だと思います。有限時間の中で目標を達成するための試行錯誤、創意工夫には大きな価値があります。

一方、ヨガに取り組んでいると、毎回の自分の身体状態が全く異なり、かつ予測ができないので、最初に固定的な目標ありきで進めることがなじまないと感じます。

ですので、最初の呼吸の入り方、立っている姿勢のおさまり具合など、瞬間瞬間に自分を理解する、自分とつながることが大切だと感じます。そして、その自分とのつながりを保ちながら、つまり呼吸が止まらない範囲で挑戦を続けること。結果的にそのほうが限られた時間の中で無理なく、大きな変化が自分の身体に生まれている(フィードバックされる)実感があります。

答えは常に自分の内側にある。その答えは唯一の真理のような不動で固定的なものではなくて、たえず流動しているんだと思います。そして、その前提にあるのは、「身体が直線的で右肩上がりに成長するわけではない」ということだと思います。

完璧を求めすぎず、呼吸を頼りにして自分の内側へと深く深く潜ってゆく。日常生活の中での静かな時間を大切にしたいものです。静けさと呼吸の力。

完全なものについて。人はつねに完璧をめざします。
「自分は一生平凡な人間で終るつもりだ」と言うのさえ、既に完璧をめざす事です。それどころか、そういう望みこそ、人の意表に出ようと望むよりも、はるかに難しいそして高級なねがいであると言えます。

白洲正子『たしなみについて』

静かな生活。ほんとうに静かなものは、死をおいてよりありません。人間はいやでもおうでも一生を、びっこひきひき遠い路をゆく旅人であります。つねに、ひと夜の安息を求めつつ、手頃な宿を探し求めて日がな一日歩きます。たべ物に追われ人に追われ子供に追われて、ついにいつの間にか死んでしまいます。そうしてはじめて我等の上に、永遠の平和は音信れるのです。

白洲正子『たしなみについて』


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