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任せること、委ねること、そして無心〜身体を思い通りに動かすイメージを手放すことを通じて〜
ヨガで身体を動かしていると、「自分の力」あるいは「意識」で身体の全てをコントロールすることの難しさを実感します。
そもそも、心臓をはじめとする様々な臓器は、「動かそう」と意識せずとも自律的に動いています。
それだけでなく、自分で動きのイメージをしていたとしても、そのイメージどおりに身体が動くとはかぎりません。
実際に身体を動かしてみて、その動きが事前のイメージと重なったときに「思い通りに動いた」という意識が後から生まれると捉えたほうが、むしろ自然なのかもしれません。
だからこそ、身体をイメージどおりに動かすことのできる人は、それこそ「自由自在」を体現しているのだと、尊敬の念に堪えません。
私にできることといえば、身体を動かすイメージしたとしても、「あとはなるようになる」気持ちで、それこそ「無心」で重力に身を任せること、身を委ねることです。
「任せること」や「委ねること」というのは、自分のイメージを手放すことでもあり、イメージに囚われないこととも言えるかもしれない。
そのようなことを思いました。
ここで美への理解には如何に直観や感受が大切な働きをするかが分る。易しく云えば素直な受取方こそ美に即する道なのである。それ故自らが審き手の位置に立ってはならない。作る場合も全く同じで知的美と云うが如きは、自在美からは遠いのである。美は当然もっとも内から湧き上るものであってこそよい。外からの知の働きはむしろ美を封塞する恐るべき敵だとさえ云えよう。それはとかく自在を喪失させて了うからである。「金剛経」の句に「応無所住而生其心」とあるが、実にこの無住(即ち自在)の所から、おのずから発してこそ、始めて真実の美となるからである。私は無住と自在とを不二に見たが、住所が固定されては、そこに拘束されて自在は消え去って了う。
さて、近世に於ては高い美は一切が卓越した天才のみの所業であると解されているのである。だが果してそうであろうか。凡人はどうしても美と結縁する事は出来ないことであろうか。この問いへの答えは数々の名品が、無名の凡人達から生れている事実を指摘さえすれば、何もかも明瞭となって来よう。ここで再び民芸の分野の重要性が肯われてこよう。凡人が凡人のままで、別に天才に生れ変る要もなく、立派な仕事を沢山示してきたからである。ここで何故凡人たる多くの工人達から美しい品の数々が生れて来たかは、凡人達が却って心の自在を得る機縁を持ち易いからだと説明してよいと思える。これに比べると美意識のある美術家達は、却ってその意識に囚われの身になり易く、これが心の自在を奪って容易に優れた作を生み難い理由を酵すのだと説いて筋が通ろう。
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