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手放すこと、労ること〜執着が身体に生み出す余計な力みを除いてゆくことを通して〜

ヨガを続けていると、日々自分の身体の状態が違うことに気づく。

それは「しなやかさ」であったり、あるいはバランスの取りやすさを通してだったりする。

昨日はもっと伸びたのに、いつもの自分ならもっとバランスが取れるはずなのに。

そう思っても、その瞬間、現在の身体の何かが変わるわけではない。

その時々の身体の状態を受け入れて、その状態のもとで最善を尽くす。

すると、不思議と余計な力が取れて、「しなやかさ」が取り戻せるような兆しが見えてくる。

自分で自分を縛りつける余計な力みを取り除くことが「自己を労る(いたわる)こと」につながっているのだと思う。

「過去の自分」との比較は無意味で、右肩上がりに無限の成長を続ける自己は「身体」という実体には当てはまらない。

執着を手放すことで初めて、労わる気持ちが芽生えてくる。

自分の身体を通して思うこと。

ここで人間の自由を障げる大きな力を二つに分けて考えると分かり易い。第一は自己で、これが一切の執心の泉になる。この執心こそ自己を縛る何より大きな桎梏なのである。第二は人間の持つ知識であって、これがいつも是か非かの二元に人間の心を縛って了う。もとより知識を持つ事は人間が人間たる所以なのだが、おかしな事に人間が持つこの特権の濫用が、しばしば人間を他の生物以下にして了うのである。(中略)もとより知識で人間は、様々な偉業を建ててはきたものの、又これが為にどんな心の自由を失って了ったか分らぬ。考えると一切の人間の葛藤は二元の考えに落ちている事から起る。

柳宗悦『仏教美学の提唱』

かく人間をこの罠に落とし入れるものが、以上の自我への執着と、知識による分別との所業なのである。自我は直ちに自他の二を分け、知識はすぐ是非の二にものを割るではないか。何れも二元の巷に人間をすぐ落として了うのである。この分割から一切の苦悩や不安がかもし出されてくるのである。この二元の対立は人間界に於てはとくに深刻な様相を呈してくる。だが仏教では、かかる二元的な考えを妄念だと言い切って了う。そうしてそれは自性のない空なものに過ぎないのを明らかにする。ここで美醜の問題に返って真理を尋ねるとしよう。醜さとは何なのか、この二元に縛られて自由を失ったしるしを指すのである。それ故、美しさとは何なのか、この二元から解放されたその自由に活きる姿なのである。

柳宗悦『仏教美学の提唱』
書肆心水オフィシャルサイトより

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