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「借り」とは何だろう?

昨日まで、E・F・シューマッハ(経済学者)による「スモール・イズ・ビューティフル - 人間中心の経済学」を読み進めていました。

人を阻害することなく、自立を支援する「人間の顔を持つ技術」の必要性について説かれており、その前提にあるのは「人は小さいものである」という精神性です。

人間は小さいものである。だからこそ、小さいことはすばらしいのである。巨大さを追い求めるのは、自己破壊に通じる。

「人間は小さいものである」という言葉における「小さい」は、様々な恵みをもたらす雄大な自然と比較すれば「人間は小さい」と考えることができると思いました。

一方で「本当にそうだろうか」という思うところもあり、この「小ささ」の意味を掘り下げてみたくなりました。「人は何もかもを自分でゼロから生み出すことはできない」という事実が「小ささ」を考えるヒントとなるような気がしました。

「色々なものに頼っている(拝借している)」と捉えれば、「借り」という概念が、この「小ささ」を深掘る上でのモノサシになるのではないか。そう直感し、今日からしばらくの間、ナタリー・サルトゥー=ラジュ(哲学者)による著書『借りの哲学』を読み進めていきたいと思います。

まず、「はじめ に- <負債>から<借り>へ」から一部を引用してみます。

ところで、現代のように資本主義が発展する以前の社会では、<負債>というのは、たいへん恐ろしい意味を持っていた。物やお金を借りて返せなかったり、受け取った商品やサービスの代金を支払えなかった場合は、自由を差し出し、相手に隷属しなければならなかったからである。
だが、逆から言えば、その個人の自律とは、資本主義によって - つまり、お金ですべてが清算できるという制度によって初めてもたらされたものであるから、お金がなければ、そもそもの「自律」の前提がくずれる。また、そのいっぽうで、制度や社会、人間関係のしがらみが消えたせいで、確かにさまざまな意味で<借り>はなくなったものの、当然のことながら、人々のあいだの結びつきは弱まり、個人は孤立してしまった。その結果、お金のない人間は、<負債>をお金で清算することもできず、かといって、<借り>をつくるかたちで「社会や制度、人間関係に頼る」こともできず、返済不能の状態になって、昔よりはるかに大きな苦しみにあえぐことになったのである。
紀元四世紀から五世紀の古代キリスト教の神学者であり、哲学者のアウグスティヌスはこう言っている。「私たちの持っているもので、人から受けていないものがあるだろうか?」人は自分の力だけで生まれてくることはできないし、自分の力だけで「自分をつくっていく」こともできないのである。

古代における「負債」は「自由の喪失(束縛)」につながる危険性をはらむものでした。

一方、資本主義の台頭により「貨幣が容易に手に入り、貨幣で全てを清算できるような社会」へと移行してきたため「債権者が債務者を奴隷にする」ような負債、あるいは「しがらみ」から一旦は解放されたように見えました。

しかし、「膨大な借金」に苦しむケースは珍しくなく、資本主義経済は当初期待されたように負債をなくすのではなく、増やす方向に向かっています。

「誰にも頼ることができない」

社会の中で誰にも頼ることができなければ、それはつまり「孤独・孤立」を意味します。「借りをつくる」ためには、借りを作れるかどうかによらず「誰かに頼る」ことができる必要があります。

「借り」の気持ち(概念)というのは、何か「具体的な支援を受ける」などにより「借りをつくった」と意識することで生まれるものなのでしょうか?

私は必ずしもそうでないように思います。

たとえ対価を伴うような経済取引・物々交換であったとしても、「他者から受け取った何か」には、対価(貨幣)の受け渡しにより清算できない部分が含まれているのではないでしょうか。それは「他者から譲り受けた」という意味で、(いつ返すことになるのかは分からない)「借り」を作っていると捉えることはできないでしょうか。

それは「特定の誰かを思いやる」気持ちかもしれませんし、あるいは「誰かの目に止まってくれて役に立ってくれたら嬉しい」という気持ちかもしれません。

ここに「借り」と「利他」の接点があるように思いますし、「人間は小さいものである」との言葉に迫っていけるような気がしてきました。

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