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努力より脱力〜自分とつながる感覚を回復する。〜
努力より脱力
今日も朝からヨガに取り組む。午前中に取り組むと身体が目覚めていないのか呼吸が入りにくいことが多い。最初の一呼吸で「あぁ…肺が広がっていかないな…」と心の声が聞こえた。
「努力より脱力」
これは自分の身体の声に耳を傾け続けてきた中で起きた意識の変容である。ゆっくりと少しずつ。力まなくていい。今の自分に自然な呼吸を心がける。一度にたくさん吸い込もうとしなくていい。
同じ呼吸のシークエンスが20回繰り返される。呼吸の回数を重ねるごとに、肺の緊張がほどけて緩やかに膨らんでゆく心地を感じる。呼吸に過度の力みが入ってしまうと、この緩やかな膨らみを感じることができなくなる。むしろ窮屈さを覚えることもある。
だから、「もっともっと(more and more)」に駆り立ててられて努力するのではなく、「今の自分はこれでいい」と脱力してゆく。「これでいい」は惰性やあきらめではなくて、ちょうど過不足のない状態、調和している状態とも言える。
ゆるみ、ほどけ、とける
鏡越しに見える自分の姿を凝視しない。目の力、顔の力をゆるめて全身を優しくぼんやりと眺める。焦点を合わせないことで、意識が空間全体に融けてゆく。次第に自分の全身の隅々まで意識が広がり、自分の身体は空間に存在する一つの事物ではなく、その場となめらかにつながって融けてゆく感覚を覚える。言葉では上手く表現できないけれど「内観」しているのだと思う。自分自身を探っている。
人間の身体は本来とてもしなやかなはず。誰しもがこの世に生を受けた瞬間、あふれんばかりに広がる世界に向かって、その世界とのつながりを確かめるように手足をばたつかせるのではないだろうか。
自分の内側から出てきたものであろうとなかろうと、「こうあるべき」を手放すことで、初めて人は自分の内側から発せられている声を聞くことができるように思う。その声は様々な形で聞こえてくる。
その声はどのように聞こえてくるのだろうか。
たとえば「今日は呼吸が入りやすい」という感覚や、「全身が重い」という感覚かもしれない。その声は自分にしか分からない。つまり、自分の内側から聞こえる声は、自分自身とのつながりに根ざした「声なき声」なのだと思う。
内受容感覚。自分自身とつながる感覚。
自分の身体の中に対する感覚は「内受容感覚(interoceptive sense)」と呼ばれる。私はこの感覚を内受容(interoceptive)と最初に名付けた方に本当に感謝している。自分の内側から発せられる声なき声を聴くというのは、「自己を受容する」ということ。そのように捉えた感性を私も見習いたい。
決してスピリチュアルな話ではなく、本来誰しもが持っている身体感覚であり、自分自身とつながり続けていく感覚。自分とつながる感覚がもたらす微な声に耳をすませることこそ、現代社会において希少ではないだろうか。
弱さ。静けさ。穏やかさ。
強さ、にぎやかさ、激しさと対置されるこのような概念は、自分を内観する上で欠かせない。対置される概念のどちらが優れているということはなく、均等にバランスしてこそ人は健やかさを保てるのではないだろうか。
ありのままに綴る穏やかな朝。