人間の善意と知恵を結集する。自律分散のカタチ。
今日は『創造的人間』(著:湯川秀樹)から「自然の法と人間の法」を読みました。
自然の法とは自然界に潜在する可能性(原理原則)のこと。人間は自然の法を解明し、様々な技術に昇華させ、実生活に応用してきました。著者は科学文明を「第二の自然」と呼びます。人工的なものの裏側には必ず自然の原理原則が働いている。科学文明は自然界に包摂されています。
人に快適をもたらす場合もあれば、不快をもたらす場合もある。既知と思っていても実は未知が残っていて、それが副作用として発現することもある。
人間の法とは、人が定めた法。それは明文化される場合もあれば、不文律の場合もあります。環境の変化と共に人の倫理・価値観も変化してゆく。それと共に人が定めた法も修正される。願わくば、万人の「善き生」のために。
不信感が生み出す科学文明の歪み
著者は科学文明が「天使の姿から悪魔の姿へと変貌する」と述べます。一体どのようなことでしょうか。
「ところが相手に対する不信感がそれでも消せなかった場合には、正反対の結果を生じた。それぞれの側が自分を護り、相手を倒すための有効な手段として、科学文明が利用されることになった。」
この言葉にふれた瞬間、足元のウクライナ情勢のことが頭に浮かびました。相手に対する不信感が武力行使につながってしまった。現実に恐るべき破壊力となってしまいました。失われてしまった尊い命があります。
「それは多くの場合、相手をよりよく理解させるのに役立ってきた。たがいに相手に対して、より大きな信頼感を持たせる結果となる場合が多かった」と著者は述べますが、「相手をよりよく理解させるのに役立つ」とは実際にどのようなことなのでしょうか。
私たち人間も自然の一部だとすれば、自然に学び、自然からの学びを通して人を知ることができるはず。互いの心を直接的にのぞくことはできないかもしれないけれど、知の蓄積・基盤を通して、直接的な経験を通して、互いの社会・文化的背景に関する理解を深める。技術やメディア。「知の蓄積」はもまた第二の自然なはず。
相手を斥ける術ではなく、相手と健全な距離感を保つための術として。時に近づき、時に遠ざかる。その循環の中で、健全な関係は生まれるのだろうと思うのです。
人間の善意と知恵を結集する。自律分散のカタチ。
著者は「現代から未来に向かって生きる人間の善意と知恵とが、その実現のために結集されたならば、科学文明の持つ悪魔的面相も消えてゆくのではないだろうか」と述べます。
足元のウクライナ情勢から各国の立場・利害関係が浮きぼりになりました。著者がいうところの「世界連邦」が樹立される日は訪れるのでしょうか。
「世界連邦」なるものが樹立されたとしたら、そのカタチはどのようなものなのでしょうか。少なくとも「ピラミッド構造」「中央集権」ではないような気がするのです。
独占がない、自律分散的な生命体のような。集合的な知によって動く方舟のような何か。自律分散が意味するところを、私はまだ何も知らないのです。だから学びたい。