三昧、明鏡止水(ありのままを、ありのまま捉えるということ)

暑さが厳しさを増す今日この頃。叩きつけるような日差しの中、久しぶりに美術館へと足を運ぶ。国立新美術館の企画展「テート美術館展 光 ― ターナー、印象派から現代へ」が目当てだ。

これまで数々の画家が「光の素描」を開拓してきた。そして、今もなおその試みは続いている。自分が目で見ている景色というのは、見ている対象から放射、反射、屈折している「光」を見ている。仏教において「色即是空、空即是色」という言葉があるけれど、ありのままの姿を捉えているわけではない。あくまでも人間としての身体的制約の範囲内で「光」、すなわち「色」の集合としての景観をそこに見ている。

何かの芸術作品を鑑賞するとき、「見ている自分」「見られている作品」という関係性、つまり主体と客体という関係から遠ざかっている経験は誰もが一度は経験したことあるのではないだろうか。没入している、作品と一つになっている感覚。

時代は移り変わり、美術館も作品によっては写真撮影が可能になっている。作品を写真に収めた瞬間に何だか自分の心が作品から離れてしまうような気がして、極力写真は撮らないようにしている。

作品は得てして解釈したり、細部にばかり目を奪われると、作品全体が持つ大切な何かを見落としてしまうような気がする。だから、何も考えず、ただただその場の時間と空間に浸り続ける。それがとても貴重で、贅沢な過ごし方だと思う。

日本を代表する数学者である岡潔先生の著書『数学する人生』からいくつか言葉を引いて、この感覚の輪郭をつかんでみたい。

 仏教の一宗に光明主義というのがある。念仏三昧を主眼にしている。三昧とは精神統一という意味である。

『数学する人生』(岡潔、森田真生編)

「三昧」という言葉を日常生活の中で使うことがあるけれど、この「三昧」という言葉の意味を問われると案外悩んでしまうのではないだろうか。パッと思い浮かぶのは「贅沢三昧」という言葉だ。「贅沢=三昧」のような構図で捉えてしまうかもしれないけれど、岡先生の言葉にあるように本来は贅沢と三昧は意味合いが異なる。

そもそも「何を贅沢と捉えるのか?」「自分にとっての贅沢とは何か?」という問いがあり、その贅沢だと思える何かに対して精神を集中する。それが贅沢三昧の本来の意味であり、三昧とは姿勢や態度を表す言葉だとわかる。

 私は名前は、いくら聞いても直ぐ忘れてしまうのであるが、禅師とその弟子とがあった。禅師がじっと坐り込んでいる。それを見て弟子が、先生何をしていらっしゃるのですがか、ときいた。禅師はこう答えた。「個の不思量底を思量する」。ある一つの、どうにも考えようのないほとりを考えているのだ、という意味である。そこで弟子は当然きいた。「不思量底如何が思量する」。禅師は答えた。「非思量」。ただその法に関心を持ち続けるのだが、これは自分も法になっていなければできないのだ、という意味である。

『数学する人生』(岡潔、森田真生編)

非思量。この言葉はとても大切な言葉だと思う。芸術作品を鑑賞するときに自分と作品という関係を乗り越えて作品に没入している。それは「非思量」であり「三昧」のだと気付く。作品の細部、全体と個の関係など、得てして作品を構成する何かを分けて捉えることで理解した感じがするけれど、本当に理解したことになるのだろうか。

初めから部分をつなぎあわせて全体として捉えようとするのではなく、まず「ありのままを、ありのまま捉える」という分かり方こそ大切なのではないだろうか。岡先生はこの分かり方を「信解」と表現している。

何かをパッとみた瞬間に、ありのままをありのままに、心は大切な何かを捉えている。そして、そのあとに「感情」が湧き上がってくる。感情とはある意味で色のようなものかもしれない。喜怒哀楽など、本来はグラデーション的な感情も、どこかで線を引いて分けて捉えている。だから「感情」を交えて何かを捉えている時点で、ありのままを捉えていることにはならない。岡先生はこの分かり方を「情解」と表現している。

信解、情解ときて、最後に「知解」という分かり方を説いている。これは知的に分かるということであり、何かしらの形で構造的に分解して分かろうとする分かり方。

知的に分かるだけが分かり方ではない、ということ。芸術作品はそのことを教えてくれる。ありのままをありのまま捉える。「明鏡止水」という言葉があるけれど、波風の立たない水面は鏡のように澄んでいる。感情という波を立てず、心静かに。そうして初めて、見えているようで見えていない大切な何かが自分の心に映るのだと思う。心の静けさを取り戻そう。

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