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記憶装置としての身体、そして、意識・思考生成過程としての身体動作〜習慣を下支える意識や考え方は、時間と場所を選ばずに発揮、適用され得る〜
「習慣を下支える意識や考え方は、時と場所を選ばずに発揮、適用できる」
そんなことを思うのは、年末年始の休暇期間の中で、ヨガやHIITなど、身体を動かす頻度が日常生活に比べて下がり、なんだか気持ちが落ち着かない。
最寄りの神社の参道が傾斜のついた階段になっているので、一段一段を丁寧に、どの辺に負荷がかかっているのか、どの部位が伸縮しているのか、身体の内側を観察しながら、見通しながら上り下りする。
ヨガやHIITなど、日常のルーティーンとは違う状況においても、自然と身体の内側に意識が向くようになっていることを再認識しました。
同時に、ヨガスタジオという場所がなくとも、形は違えども、習慣に根付く意識、習慣を下支える考え方は時間と場所を選ばずに適用することができるのだとも思います。
身体は「記憶装置」であり、身体の伸縮という感覚を通して「記憶」と共に意識が生成され、考え方が発現する(思考プロセスが起動する)。
日常生活の中で「意識する」という言葉を聞くことが度々あるけれど、意識は後付け的に喚起・生成されるものであり、意識が発現する前段階としての「動作・行動」を具体化・言語化・パターン化して実践を積み重ねることが重要なのだろうと思います。
私は科学の進歩に究極があり、学説に絶対唯一のものが有限な将来に設定されようとは信じ得ないものの一人である。それで無終無限の道程をたどり行く旅人として見た時にプトレミーもコペルニクスもガリレーもニュートンも今のアインシュタインも結局はただ同じ旅人の異なる時の姿として目に映る。この果てなく見える旅路が偶然にも吾々の現代に終結して、これでいよいよ彼岸に到達したのだと信じうるだけの根拠を見出すのは私には困難である。それで私は現在あるがままの相対性理論がどこまで保存されるかという事は一つの疑問になりうると思う。
しかしこれに反して、どうしても疑問にならない唯一の事実は、アインシュタインの相対性原理というものが現われ、研究され、少くも大部分の当代の学界に明白な存在を認められたという事実である。これだけの事実はいかなる疑い深い人でも認めないわけにはいかないだろうと思う。これはしかし大きな事実ではあるまいか。科学の学説としてこれ以上を望む事がはたして可能であるかどうか、少くも従来の歴史は明にそういう期待を否定している。