「つかむこと」と「手放すこと」の非対称性
何かを物をつかむこと、つかんだ物を手放すこと。
つかんだ物を手放すことのほうが難しいように思うのは気のせいだろうか。たとえば、取手のついたコップに指をかけてみたり、離してみたり。どちらも難なくできると思うかもしれない。
でも、その「難なく」の感覚は等しいのだろうか。「手放すほうが難しい」と感じるのは気のせいだろうか。もし、「つかむこと」と「手放すこと」の間に非対称性が存在するのだとすれば、その非対称性は何に由来するのだろう。
「つかむこと」と「手放すこと」は具体的な動作の一例なので、もう少し抽象度を上げてみると「緊張と弛緩の間に非対称性は存在するのだろうか?」という問いになる。
ヨガの中に「シャヴァーサナ」というポーズがある。「屍のポーズ」という意味で、全身の力を抜いてリラックスする。ただただ身体の力を抜くだけと侮るなかれ。これがじつに難しい。
横たわった身体に意識を向けた時、本当に身体の力は余すことなく抜けているだろうか。身体の力が余すことなく抜けているとしたら、どのような感覚が生まれてくるのだろうか。
横たえた状態で「身体の力を抜く」ことは、つまり自分の重さをすべて大地に預けることに他ならない。預けるのは身体の重さだけではない。「今日は良かった」「良くなかった」といったような過去、自分に意識を向けることから生まれる「心の重さ」も預けてしまう。
重さを預けてゆくと、どのような感覚が生まれるのだろうか。それは地面が自分を押し返してくれる、つまり「地面が自分を支えてくれている」という安心感である。「リラックスしよう」と意識を自分にとどめているうちは、本当の意味でリラックスできないように思う。地面が自分を支えてくれているという安心感に包まれる時、自分に向かう意識は薄れ、自分が地面と一つになってゆく。
つまり、「重さを預けること」は「自分を手放すこと」に他ならない。この手放すことは「今日は今日、過去は過去」という、ある種の自己受容が必要になる。「手放すことは委ねること。そして、ゆるすこと」なのだと思う。
以前にも紹介したけれど、インドでは次のように子どもに教えるそう。
重さが過度に集中しすぎて壊れてしまわないように、重さを預けることと、重さを引き受けることのバランスを探り続けてゆきたい。
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