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身体の螺旋的発展〜呼吸の循環を通して〜
私が取り組んでいるヨガのシークエンスは、「深い呼吸」から始まります。
体重が左右均等になるように中心軸を意識し、地面に対してまっすぐ立つ。
ゆっくりと静かに時間をかけて息を吸い、ゆっくりと静かに時間をかけて息を吐く。
その呼吸の円環を幾重にも重ねていきます。
呼吸を重ねていくうちに身体は次第にしなやかさを増して、最初の呼吸と、最後の呼吸では肺の広がり、身体の伸び方が全く違います。
弁証法で知られるドイツの哲学者ヘーゲルは、「物事はあたかも螺旋階段を登るように発展する(一周して元の位置に戻ったように見えても、一段新しい状態へと移行している)」という「螺旋的発展の法則」を提唱しました。
この法則は、事物や社会という文脈で参照されることが多いように思いますが、呼吸の円環により、身近な世界である「身体」もまた螺旋的に発展しているのではないか、と自分事として実感できるように思うのです。
ここで何故原始民達の作品に、驚くべきものが多いかの理由をとくと想い見る必要が起ろう。彼等はその原始性の故に、却ってこだわる何ものをも持たず、宛ら児供心に近い自然な暮しを為し得ている為だと云えよう。謂わば自然人たる事が自在人たり得た根本の理由だと云えよう。そうして何故原始作品に驚嘆すべきものが多いかの理由は、彼等が文明人よりずっと自然人であり自由人たる故にあろう。以上述べた通り、美の本質は畢竟「自在性」にある事が分ってくる。
「歎異抄」を読むと親鸞上人の言葉として、「念仏は無碍の一道なり」と記されてある。何も念仏の事のみではなく、美の一道とて無碍の本質を離れてはないのである。実に宗教の道そのものも無碍の一道であるが、この無碍の体得こそ解脱の意であって、美もまた無碍心の発露に外ならないのである。この無碍心こそ自在心の謂なのである。美は「自在美」でありこれを又「無碍美」と言い改めてもよい。それ故醜は不自由や罣碍の現れに外ならないのである。「心経」に「罣碍なければ恐怖なし」とあるが、この句もまた美の本質を暗示する妙句だと云えよう。何の怖れもないのは自在心を持つ者のみの特権だとさえ云えよう。
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