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"流れが整っている"とは、どういうことだろうか?

「流れが整っている」とは、いったい何を意味するのだろう。

たとえば、整っている「川の」流れをイメージしてみる。

気体や液体の流れの乱れを整えること、あるいは一方向へ流れるようにすることを「整流」というけれど、流れの「方向」が一つに定まっている。

では、「方向が一つに定まっている」とき、水の粒子はどのように動いているのだろう。

一つひとつの粒子が相互に働きかけながら、衝突することなく運動しているのだろうか。

おそらく、一つひとつの粒子(部分)は方向が完全一致してはおらず、ある意味で思い思いに運動しているのではないだろうか。

時に交差するかもしれないし、並走するかもしれない。

それらの運動の総和、総体が巨視的な「表現」、あるいは「かたち」として、一つのまとまりとしての「うねり」をなしている。

全体は一つであるが、部分は必ずしも完全一致した一方向とはかぎらず思い思い。

「全体も部分も方向が完全一致している」というのは、完全に制御(あるいは支配)された状況であり、そのようなケースは稀という意味で「不自然」なのかもしれない。

「自律性のもとで調和している」ということの「表現」あるいは「かたち」とは一体どのようなものがあるだろうか。

真理とは、真なるものの本質を言う。われわれはこの本質をギリシア人の言葉を回想することから思索する。アレーテイア〔ἀλήθεια〕とは、存在するものの不伏蔵性〔Unverborgenheit〕を意味する。しかし、これはすでに真理の本質の規定なのだろうか。われわれは単に語の使用を変更することーー真理の代わりに不伏蔵性ーーを、事柄の特徴づけと偽っているのではないか。真理の本質を不伏蔵性という語で言わざるをえなくなるためにはいったい何が生起しなければならないかを経験しないかぎり、たしかにそれは名称の取り替えにとどまる。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

真理の本質を不伏蔵性という語で言うためには、ギリシア哲学の復興が必要となるのだろうか。そのようなことはまったく必要とはならない。たとえそのような不可能事が可能になるとしても、復興はわれわれにとってなんの助けにもならない。というのは、ギリシア哲学の伏蔵された歴史は、その原初以来、次のようなものであったからだ。すなわち、ギリシア哲学はアレーテイアという語の内に閃いている真理の本質に従わないままにとどまったのであり、真理の本質についてのその知と発言とをますます真理の派生的な本質の論究に変更していかざるをえなかったのである。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

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