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ふれて引き出す。ふれて見つける。

今日は『手の倫理』(著:伊藤亜紗)より「フレーベルの恩物」を読みました。本節ではドイツの教育学者であるフリードリッヒ・フレーベルの教育論に注目します。

幼児が物に「ふれる」ことを通して色々な性質を引き出し、見い出す過程を題材に、物の性質を引き出すという営みは自分自身にフィードバックされ、そうした性質を引き出すことができた「自分自身を知る」という過程が同時に発生しているのだ、とフレーベルは考えます。

ああ...これはまさに「才能」の話にも通じるなと思ったのでした。

それでは、一部を引用してみたいと思います。

 もう一つは「恩物」です。「恩物」とは、積み木や棒、ビーズのような粒などから構成される教育玩具のこと。いまでは世界中で見られる、幼い子供たちが元気よく園庭を走り回ったり、球や立方体の形をした玩具をつまんで遊んだりする光景は、フレーベルの長年の研究の成果なのです。
 見たまえ。あそこでひとりの幼児が、いま見つけたばかりの小石に、色をだすという性質があることを発見した。かれは、その小石を、その作用からその性質をおしはかるために、自分の近くにある小さな板にこすりつけてみたのである。それは、石灰や、粘土や、代赭石や白墨の一片である。よく見たまえ。この新しく発見した性質を、かれはなんと喜んでいることか。腕や手をいかに忙しくすばやく動かしながら、この性質を用いていることか。板の表面はもうほとんど一変してしまっている。
 石が持つ、「書く道具」としての性質。それはただ外から石を眺めているだけでは気がつかない性質です。それを手にとり、実際に板にこすりつけてみることによって、幼児は初めてその性質を引き出したのです。
 興味深いのは、こうして石や木、物の性質を知っていくことが、フレーベルにおいては、「自分自身を知ること」へと折り返されていく点です。ものの意外な性質が引き出されることと、自分の中の意外な性質が引き出されることは、フレーベルにとってセットになった一つの出来事なのです。だからこそ、フレーベルは子供の発達において触覚的な経験が持つ力を重視したのでした。

本節を読みながら、幼い頃に造形教室に通っていた記憶がふとよみがえってきました。絵を描いたり、陶芸を作ったり、木や紙などを組み合わせて工作したり。

あーでもない。こうでもない。そもそも自分が何を作りたいのかも分からない。とにかく素材に触れて、絵の具を混ぜたり、素材の組み合わせを変えたり、切ったりつなげたり、形を変えたり、作ったものを壊したり。いま思うと「変形する」ことを通して、イメージをふくらませると同時に、素材自体が何であるかを探っていたのかもしれません。

変形する過程で、素材の色々な性質がわかってきます。分かるというか身体になじんでゆく感覚です。ベタベタする、くっつく、伸び縮みする。ああ...とてもなつかしい。

では今の自分は日常生活の中で、何かに触れながらその個性を探る時間がどれだけあるだろう、と考えると残念ながら圧倒的に減りました。パソコンのキーボードの感触。スマートフォンのタッチパネルの感触。階段の手すりの感触。テーブルの感触。紙の感触。自分が見にまとう服の感触。どれも「ふれる」というよりは「さわる」に近いです。

情報化社会、デジタル化の流れの中において「視覚偏重」になってきているように思います。街を歩く人、電車に乗っている人、カフェで時間を過ごす人。スマートフォンやPCの画面を眺めている光景が日常になってきました。

「ふれる」機会が希少になっているからこそ、日々の「さわる」機会を「ふれる」機会に変えてゆく意義があるように思います。

「ふれあう」という言葉があります。身体的には「ふれて」いなくとも「ふれあう」という言葉が成立することは興味深いです。お互いにお互いの個性を引き出したり、探ってゆく過程が「ふれあい」という言葉の根底にあるのかもしれません。

「ふれあいという関係」も「ふれる」に含めることができるのだとしたら、「離れた空間と時間をつなぐ技術」というのは、アナログかデジタルかによらず、離れた場所の相手に「ふれる」ことを可能にするのかもしれません。

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