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身体の自由度〜互いにつながり合っているということ、不自由がゆえに自由〜

「身体の自由度」

いつものようにヨガに取り組んでいると、ふと「身体はどこまで自由なのか」という問いが降りてきた。

「なに不自由なく身体を動かしている」と思っているけれど、はたして本当に「不自由なく」なのだろうか。

数学や統計学などにおいて、自由に決めることのできる値の数を「自由度」と呼ぶ。

自由度はまた、ある系(システム)の「次元」とも言える。

身体を単純化して頭・胴体・手・足の4つからなる系だとすると、それらは胴体を介して互いにつながっている。

「手を伸ばして何かをつかもう」とするとき、実際には「手のみ」を動かすことはできず、手につながる胴体(肩や背中)、そして胴体につながる頭や足が協調的に連動する。

これは「頭、胴体、足は手から独立(自由)ではない」つまり「不自由」であることを意味しているように思えるが、身体の各部位が協調的に連動するからこそ様々な運動が可能になることのであれば、「不自由がゆえに自由」であるとも思える。

「身体はどこまで自由なのか」という問いは「互いにつながりあっている」ということの意味を考えるきっかけを与えてくれるように思う今日この頃。

しかし科学者と芸術家の生命とするところは創作である。他人の芸術の模倣は自分の芸術でないと同様に、他人の研究を繰返すのみでは科学者の研究ではない。もちろん両者の取扱う対象の内容には、それは比較にならぬほどの差別はあるが、そこにまたかなり共有な点がないでもない。科学者の研究の目的物は自然現象であってその中になんらかの未知の事実を発見し、未発の新見解を見出そうとするのである。芸術家の使命は多様であろうが、その中には広い意味における天然の事象に対する見方とその表現の方法において、なんらかの新しいものを求めようとするのは疑もない事である。

寺田寅彦『万華鏡』

また科学者がこのような新しい事実に逢着した場合に、その事実の実用的価値には全然無頓着に、その事実の奥底に徹底するまでこれを突き止めようとすると同様に、少くも純真なる芸術が一つの新しい観察創見に出逢うた場合には、その実用的の価値などには顧慮する事なしに、その深刻なる描写表現を試みるであろう。古来多くの科学者がこのために迫害や愚弄の焦点となったと同様に、芸術家がそのために悲惨な境界に沈淪せぬまでも、世間の反感を買うた例は尠くあるまい。このような科学者と芸術家とが相逢雨て肝胆相照らすべき機会があったら、二人はおそらく会心の握手を交すに躊躇しないであろう。二人の目指すべきところは同一な真の半面である。

寺田寅彦『万華鏡』

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