地域固有の文脈に融け込む「人の顔を持つ技術」
E・F・シューマッハ(イギリスの経済学者)による書籍『スモール・イズ・ビューティフル - 人間中心の経済学』の「第二部 資源」より「第五章 人間の顔をもった技術」を読み進めています。
今日は「大衆による生産」について。一部を引用してみます。
さて、これはたしかに無理な注文である。ただし、それが無理なのは何もこのような重大な要請や危機状況に応じる新しい生活様式を構想できないからではなくて、現在の消費社会が麻薬中毒者に似ていて、どんなにみじめな思いをしても、薬を断つのがたいへんむずかしいからなのである。この観点からすれば、もちろん、反論はいろいろあろうが、問題があるのは豊かな社会のほうであって、貧しい社会ではない。
ガンジーが語ったように、世界中の貧しい人たちを救うのは、大量生産ではなく、大衆による生産である。大量生産の体制のよって立つ技術は、非常に資本集約的であり、大量のエネルギーを食い、しかも労働節約型である。現に社会が豊かであることが、その前提になっている。なぜならば、仕事場一つ作るのにも、多額の投資を要するからである。大衆による生産においては、誰もがもっている尊い資源、すなわちよく働く頭と器用な手が活用され、これを第一級の道具が助ける。
大量生産の技術は、本質的に暴力的で、生態系を破壊し、再生不能資源を浪費し、人間性を蝕む。大衆による生産の技術は、現代の知識、経験の最良のものを活用し、分散化を促進し、エコロジーの法則にそむかず、稀少な資源を乱費せず、人間を機械に奉仕させるのではなく、人間に役立つよう作られている。
「世界中の貧しい人たちを救うのは、大量生産ではなく、大衆による生産である」
インド独立の父として知られる「マハトマ・ガンディー」の言葉がとても印象的でした。
「なぜ、大衆による生産が貧しい人たちを救うのでしょうか?」
「そもそも、大衆による生産とはどのようなことでしょうか?」
著者のシューマッハは、次のように述べます。
貧しい国の人たちは、貧困のために結局は豊かな国の技術をうまく取り入れることができないからである。もちろん、とりいれようと努力はするだろうが、それによって大量失業と都市への大量移住、農村の荒廃や堪えがたい社会的緊張というかたちで、悲惨な結果が起こるのを覚悟しなければならない。
注目すべきは「貧しい国の人たちは、貧困のために結局は豊かな国の技術をうまく取り入れることができない」という言葉ですが、これは「技術に人を合わせる」のではなく「人に技術を合わせる」ということを表しています。
技術の枠組みに縛られて無味乾燥な単純作業が延々と続き、創意工夫や意味を見いだせなければ、人は働くことから離れてしまう。そのようなことではないかと思いました。
そして、その成果物は大量生産・大量消費経済の流れに乗り、誰とも分からない人の元へ届けられます。もしかすると誰の手にも届かぬまま廃棄されてしまうかもしれず、受け手の声、フィードバックが返ってくることはないのかもしれません。
「現在の消費社会が麻薬中毒者に似ていて、どんなにみじめな思いをしても、薬を断つのがたいへんむずかしい」という著者の言葉は、消費が「名を変えた破壊」としての側面があることを示唆しているように思います。
現代の知識、経験の最良のものを活用し、分散化を促進し、エコロジーの法則にそむかず、稀少な資源を乱費せず、人間を機械に奉仕させるのではなく、人間に役立つよう作られている。
この著者の言葉に触れて思い出した事例があります。生産の技術ではありませんが、とても役に立ち意味があるものです。
空気中の水分をから飲み水を作る「Warka Water」というプロダクトです。とても丈夫で軽く、持ち運びが楽なものです。アフリカの現地コミュニティのシンボルとなる木に着想を得たもので、その佇まいがとても美しいです。
固有の文脈に沿ったプロダクトは、その地域の人の顔を持っているとも言えるかもしれません。
地域固有の文脈に融け込むような「人の顔を持つ技術」のあり方を見出す必要があるのかもしれない。それはある意味で脱標準化であり、多様な知恵が散らばっていくような。そんなことを思いました。