「余韻」がつなぐ香りと響き〜記憶あるいは想像的な創造〜
「余韻」
昨日、「響きは香り、香りは響き」と綴りました。
このフレーズは最初から考えていたのではなく、言葉を綴っていくうちに、自然と浮かび上がってきたのです。
なぜ、自然に浮かんできたのだろうと思っていると、ふと、香りも響きも、「余韻」という言葉を通じて重なり合っていることに気が付きました。
何かを香ったとき、感じた香りの強さ、印象は時間とともに薄れていきます。また、音の響きを耳にしたとき、耳にした響きの強さ、印象もまた時間とともに薄れていきます。
この時間の経過とともに薄れゆく様子を「余韻」と表現するわけですが、この余韻とは「韻が余る」と読むのか、あるいは「あり余る韻」と読むのか。
香りも響きも、物理的な現象としての強さが極限まで薄れていったとして、香らない、あるいは聴こえないとしても、なんだか香りが続いているような響き続けているような気がする。
時を経ても、思い返せばその瞬間の香り、響きが新鮮さを伴って生き生きと甦る。
「余韻」とは「記憶」とも「想像的な創造」とも言えるのかもしれない。