見出し画像

「余韻」がつなぐ香りと響き〜記憶あるいは想像的な創造〜

「余韻」

昨日、「響きは香り、香りは響き」と綴りました。

このフレーズは最初から考えていたのではなく、言葉を綴っていくうちに、自然と浮かび上がってきたのです。

なぜ、自然に浮かんできたのだろうと思っていると、ふと、香りも響きも、「余韻」という言葉を通じて重なり合っていることに気が付きました。

何かを香ったとき、感じた香りの強さ、印象は時間とともに薄れていきます。また、音の響きを耳にしたとき、耳にした響きの強さ、印象もまた時間とともに薄れていきます。

この時間の経過とともに薄れゆく様子を「余韻」と表現するわけですが、この余韻とは「韻が余る」と読むのか、あるいは「あり余る韻」と読むのか。

香りも響きも、物理的な現象としての強さが極限まで薄れていったとして、香らない、あるいは聴こえないとしても、なんだか香りが続いているような響き続けているような気がする。

時を経ても、思い返せばその瞬間の香り、響きが新鮮さを伴って生き生きと甦る。

「余韻」とは「記憶」とも「想像的な創造」とも言えるのかもしれない。

<作品においては真理が活動している>という命題が単なる主張にとどまってはならないとすれば、われわれはもう一度その問いを問わなければならない。われわれはいまやはじめていっそう本質的に問わなければならない。真理の本質において作品のようなものへの動向はどのようになっているのか、と。真理が作品の内に据えられうるとすると、あるいはそれどころか、一定の諸条件のもとでは真理として存在するために作品の内に据えられなければならないとすると、そういう真理はどのような本質をもつのだろうか。だが、われわれは、<真理を作品の - 内へと - 据えること>を芸術の作品と規定した。したがって、最終的に立てられる問いはこうなる。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

真理が芸術として生起できるするとすると、あるいはそれどころか生起しなければならないとすると、そのような真理とは何であるのか。芸術はどのように存在する〔es gibt〕のか。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

いいなと思ったら応援しよう!