「自分の身体」は「今ここに在る私固有の身体」であると、自分では思っているわけです。
一方、「身体とはこういうものである」という固有性を限りなく捨象した先にある「一般的な」あるいは「抽象的な」身体の概念がある。
身体の各部分に名を与える。名付けられた「部分」単位で固有の機能や特性を集めて、その総体としての「無個性的な」身体、ある意味で身体の「型」と言えるもの。
そうした「無個性的な」身体は便利でもあり、不便でもある。
たとえば、可動域の範囲は人によって、部分によっても異なるし、その範囲は部分の特性だけで決まるものではなく、複数の部分の連動性、協調性にも依るし、さらには日によって異なる。
その感覚が意味するところは、身体は物質であるけれど、同時に心的なものでもあるということ。
今日は身体が「かたい」とか「やわらかい」という感覚は、それこそ身体を伸ばした時に、物理的な特性が心的な感触と合わさり、渾然一体となって自らにフィードバックされて起きるもの。
私自身の生身の身体は物質的でもあり、心的でもある。このことは自分との関わり、他者との関わりにおける重要な基盤になるように思えるのです。