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自分の身体からはじめよ〜物質性と心性の同時性〜

「自分の身体」は「今ここに在る私固有の身体」であると、自分では思っているわけです。

一方、「身体とはこういうものである」という固有性を限りなく捨象した先にある「一般的な」あるいは「抽象的な」身体の概念がある。

身体の各部分に名を与える。名付けられた「部分」単位で固有の機能や特性を集めて、その総体としての「無個性的な」身体、ある意味で身体の「型」と言えるもの。

そうした「無個性的な」身体は便利でもあり、不便でもある。

たとえば、可動域の範囲は人によって、部分によっても異なるし、その範囲は部分の特性だけで決まるものではなく、複数の部分の連動性、協調性にも依るし、さらには日によって異なる。

その感覚が意味するところは、身体は物質であるけれど、同時に心的なものでもあるということ。

今日は身体が「かたい」とか「やわらかい」という感覚は、それこそ身体を伸ばした時に、物理的な特性が心的な感触と合わさり、渾然一体となって自らにフィードバックされて起きるもの。

私自身の生身の身体は物質的でもあり、心的でもある。このことは自分との関わり、他者との関わりにおける重要な基盤になるように思えるのです。

まず形式論理の抽象性が指摘され、これに対して何らかの具体的な論理が要求される。いわゆる形式論理の抽象性は何処に存在するのであろうか。形式論理はその根源において形相formaを実在と見たギリシアの存在論と密接に結び附いている。形式論理にいう形式はもと形相の存在論と関係している。従ってもし具体的な物は形相と質料とから成るとすれば、形式論理は物の論理ではなく、物の論理としては抽象的であると云われるであろう。

三木清『構想力の論理 第一』

ロゴスあるいはヌースはアリストテレスにおいて物から質料を置き去りにして形相のみを受け容れる能力と考えられた。形式論理はいわば単純にロゴス的な論理である。しかるに我々が物そのものに、その物質性における物に突き当たるのは身体によってである。いまその主体性における身体をパトスと名附けるならば、物の論理は単純にロゴス的な論理でなくて同時にパトス的なものに関わらねばならぬであろう。

三木清『構想力の論理 第一』

従来の論理学においては思惟の基礎もしくは前階に知覚が置かれ、我々がそれによって物そのものに触れる感覚はほとんど顧みられなかった。感覚が問題にされることがあったにしても、感覚も知覚や思惟と同様ただ知的な意味において捉えられて、感覚が同時にパトス的な意味を含むことは問題でなかった。ひとが「身をもって考える」場合、身体を有する人間として行為的に思考する場合、形式論理は抽象的であると云われるであろう。そこに主知主義のギリシア的論理に対して感情の論理のごときものがなければならぬように思われる。

三木清『構想力の論理 第一』

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