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適度なストレス=進化の機会〜"生命の起源におけるストレスの役割"を通して〜

どこか緞帳を思わせる、深みがかった灰色の曇り空が広がる今朝。

曇り空で憂鬱な気持ちになるかと思いきや、朝からヨガスタジオでカラダを動かし、深い呼吸をして、汗を流していると気分がスッキリして全くの杞憂でした。

ヨガだけでなく、HIITトレーニング(High Intensity Interval Training:高強度インターバルトレーニング)レッスンを加えたこともあるかもしれません。

そんなこともあり、「ストレス」という言葉と向き合ってみたくなったわけです。

以前に読んだ『Role of Stress in the Origin of Life(生命の起源におけるストレスの役割)』という論文のことを思い出しました。

詳細は論文に譲るとして、結論に以下のような記載があります。

In a number of publications devoted to the elaboration of the TI concept, it was substantiated that chemical evolution in itself is insufficient for the emergence of primary life forms. (TI 概念の詳細化に取り組んだ多くの出版物では、化学進化だけでは原始的生命体の出現には不十分であることが実証されました。)→ TI概念:熱力学的反転(Thermodynamic Inversion)

This also requires short-term oscillations in physicochemical parameters in the environment, which exert periodic stress on prebiotic systems.(これには、環境の物理化学的パラメーターの短期的な振動も必要であり、これが前生物的システムに周期的なストレスを与えます。)

When the stress response of these systems is effective (which is possible under certain conditions), they evolve towards life.(これらのシステムのストレス応答が効果的である場合(特定の条件下で可能)、それらは生命に向かって進化します。)

From such an understanding of the process of the emergence of life, the conclusion follows that all subsequent (more complex) microorganisms must necessarily respond to stress, and in the event of an effective response, they achieve the opportunity for further development.(生命の出現プロセスのこのような理解から、すべての後続の(より複雑な)微生物は必然的にストレスに応答し、効果的な応答があれば、さらなる発展の機会を得ることができます。)

『Role of Stress in the Origin of Life(生命の起源におけるストレスの役割)』

(周期的な)ストレス、そしてストレスへの効果的な応答が「生命への進化」を促す。

自然は、ストレスへの応答によって「有用性」あるいは「有用なかたち」を取捨選択している。

筋肉は使われなければ衰えていく。

楽器を練習をしていない期間が続くと、運指(指の感覚)は衰えていく。

生物、生命はストレス(負荷)がかからなければ衰えていく。

重要なのは「適切なストレスとはどのような水準か?どのようなものか?」という問い。

ストレスが過少だと変化は見られないかもしれず、一方で過剰なストレスは自己破壊を招いてしまうかもしれない。

「ストレス=悪」というイメージに一足飛びせず、「適度なストレス=進化の機会」と捉えてみる。それは自然の、生命の流れに根ざしている。

哲学者マルティン・ハイデッガーの書籍『芸術作品の根源』の中で、世界と大地の相互対立を表す「闘争」という概念が登場するけれど、この「闘争」という言葉にも、どこか「応答」あるいは「呼応」という響き、ニュアンスが含まれているように感じるのです。

世界と大地の相互対立は闘争〔Streit〕である。われわれはたしかに闘争の本質をあまりにも安易に歪曲する。それは、われわれが闘争の本質をいさかいや喧嘩と一緒くたにし、そのために闘争をただ邪魔することや台無しにすることとしてしか承知していないからなのである。けれども、本質的な闘争においては、闘争するものたちは、一方がそのつど他方を、その本質の自己主張へと高めるのである。しかし、本質の自己主張はけっして何らかの偶然的な状態に固執することではなく、固有な存在の由来の伏蔵された根源性に自己を引き渡すことなのである。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

闘争においては、あらゆるものが自己を超えて他なるものを担う。このようにして、闘争は、ますます闘争的に、ますます本来的に、闘争がまさにそれにほかならないものになる。闘争がいっそう厳しく自己を自立的に過剰に駆り立てれば駆り立てるほど、闘争し合うものたちはたがいを単純な相互帰属の親密さ〔Innigkeit〕へと、いっそう頑固に解放する。大地それ自体が、大地として、その自己閉鎖の解放された押し迫りの内で出現するべきならば、大地は世界という開けたところを欠かすことはできない。世界が、一切の本質的宿命の支配的な広さと軌道としてそれ自体を或る決定的なものの上に基づけるべきならば、世界もまた大地を逃れて漂うことはできない。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

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