自分にとって「特別」とは何だろう?
昨日まで書籍「利他とは何か?」を読みながら、文字どおり「利他とは何だろう?」という問いに思い巡らせていました。同書では民藝運動を起こした柳宗悦さんが取り上げられており、柳さんの思想("用の美"など)は、私の私的な経験と問いをつなぐ触媒となりました。
そうした道のりを経たいま、「民藝」や「器(としての利他)」という言葉が胸に残っていまして、もう少し深掘りしてみたくなりました。
今日からしばらくの間、三谷龍二さん(木工デザイナー)が中心となり製作された『生活工芸の時代』という書籍を読み進めていきます。「生活工芸」という言葉の響きが「民藝」という言葉の響きに重なったのです。
生活、工芸。
温かい響きがしますね。
では、『生活工芸の時代』の中から「すぐそばにある、特別な場所」より「はじめに」の一部を引用してみます。
それと同じように、友人を招いて一緒に食事をする時間も、自分の家を、「すぐそばにある特別な場所」にする方法ではないでしょうか。テーブルを庭先に出し、そこに料理を並べる。集まった人がテーブルを囲み、愉しむ時間は、日常という海に一艘の船を浮かべて過ごすようなもの。木漏れ日の中で、ゆらゆら揺れながら、同船者がお互いの最近の出来事を、あるいは家族のこと、たわいのない話などをしているうちに、瞬く間に時間は過ぎて行くことでしょう。
そしてもしも器が、そんな時間のために少しでも役立つ存在だったら嬉しいと思います。大鉢からパスタを銘々の皿に取り分け、パンをちぎり、ワインを飲む。その時間が、まるで一編の物語を読むような愉しい時間になればと思うのです。
料理を作ること。部屋を整えること。自分の手を動かし、自分でものを作ること。それらにはお金では買えない価値があります。ネット社会では自由に世界と繋がることができるけれど、実はそれぞれが自分の部屋に閉じこもるだけの孤独な社会でもあります。そんな時代だから、手を動かして具体的なものに触れること、人と人が直に出会い、触れ合うことが大切なのでしょう。そしてそれが、自分のがこの世を繋ぐ結び目を作ることになるのです。
「友人を招いて一緒に食事をする時間も、自分の家を、すぐそばにある特別な場所にする方法ではないでしょうか」
この著者の問いかけが胸に残りました。
同時に「すぐそばにある特別」という表現は「特別とは何だろう?」という問いを運んできてくれました。
もしかすると、私は「"特別"が日常の中でどこか遠く離れたところにある」と思い込んでいるかもしれません。
たとえば、新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、事態が沈静化するまでは「直に顔を合わせて触れ合うこと」それ自体が貴重、希少になりました。
家、公園、オンライン空間。
人が集まることのできる場所は、屋内であろうとなかろうと、リアルであろうとバーチャルであろうと、すべて「器」であると捉えることができるような気がしました。
人、料理、会話、時間。
器の中で、色々なものが包みこまれて混じり合う。
たとえ繰り返される時間であっても、何か新しい発見があったり、新鮮さが見出される中で「特別」に変わってゆくのではないでしょうか。
「特別」とは、最初からあるものでも誰かが用意してくれるものでもなく、「自分が見い出すもの・作り出すもの・感じとるもの」と捉えてみるのはどうでしょうか。
生活工芸に触れていく上で「器とは何だろう?」「特別とは何だろう?」という問いが大事になる予感がします。