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"いつもと違う"自分が自分について教えてくれるということ〜身体との対話を通して〜
「あれ、何だか身体のバランスが取りづらい…」
ヨガに取り組んでいると、今日はいつもと何だか違って、身体のバランスが取りにくい(いつもよりも歪んでいる?)と思うことがあります。
その理由は分からないことが多いのですが、どちらか一方の足に体重をかけていたのか、無意識のうちに足を組んでいたのか、あるいは座り方が良くなかったのか…。
バランスが取りにくい時、つまり「いつもと違うと感じる自分」に気付いた時にバランスを取り戻そうとする過程こそ、自分を深く知る機会であると思えるようになりました。
無理矢理に力をかけて身体のバランスを取ろうとすると、呼吸が止まったり、力みが出てケガにつながったりします。
バランスが取りにくい時、「ゆっくりとほんの少しの変化」を加えてバランスが取りやすく感じられるところを見つけたら、一度そこで呼吸を整えつつ、新しい状態を身体になじませてゆきます。
この「新しい状態をなじませる」ことは「自分自身との対話」であるように思えます。
「落ち着いた?」「無理はない?」「調子はどう?」
対話には「ゆっくり、少しずつ、流れ(呼吸)を止めないようにする」ことが大切であると、身体は教えてくれます。
いつもと違う自分が自分自身について深く教えてくれる、ということ。
これはただ極端な一例を挙げたにすぎないが、この仮想的の人間の世界と吾人の世界とを比較しても分るように、吾人のいわゆる世界の事物は、吾々と同様な人間の見た事物であって、それがその事物の全体であるかどうか少しも分らぬ。
哲学の中には吾々が普通外界の事物と称するものの客観的の実在を疑う者が多数あるようであるが、吾々科学者としてはそこまでは疑わない事にする。世界の人間が全滅しても天然の事象はそのままに存在すると仮定する。これがすべての物理的科学の基礎となる第一の出発点であるからである。この意味ですべての科学者は幼稚な実在派である。科学者でも外界の実在を疑おうと思えば疑われぬ事はないが多くの物理学者の立場は、これを疑うよりは、一種の公理として仮定し承認してしまう方がいわゆる科学を成立させる筋道が簡単になる。元来何物かの仮定なしに学が成立しがたいものとすればここに第一の仮定を置くのが便宜であるというまでである。