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「ふれる」と「さわる」の違いはなんだろう

今日から『手の倫理』(著:伊藤亜紗)を読み進めます。著者の伊藤さんは美学を専門とされ、身体に障害を抱える方の世界の見え方などを研究されています。

前回まで『匠の流儀:経済と技能のあいだ』(著:松岡正剛)を読み、そこで語られた湯川秀樹さん(ノーベル物理学賞受賞)のエピソードがとても印象的でした。彼は自身の研究に足りないものを哲学や東洋思想、条理学など様々な他分野から補おうと努めておられた。まさに越境していたわけです。

多面的に眺める。分け隔てなくつながっていく。

「つながりの形」は様々ですが、身体的なつながりとしての「ふれる」という行為に焦点を当てている本書に関心を持ちました。

それでは一部を引用してみます。

 その研究者と会うのは初めてで、お互いの研究について自己紹介しつつ、ざっくばらんに雑談を繰り広げていました。彼の専門は体育科教育学。私の専門は美学という哲学系の学問です。分野は違いますが、しだいに議論が白熱していき、彼は自らの体育教育の理想を語り始めました。
「体育の授業が根本のところで目指すべきものって、他人の体に、失礼ではない仕方でふれる技術を身につけさせることだと思うんです」
 おお、エウレカ! 私はその言葉に大きな感銘を受けました。
 けれども、より重要なのは二つめのエウレカ。そう、彼が「ふれる」という場面を問題にしていることです。「仲間を思いやる」ことでも「協力しあうことを学ぶ」でもない。「他人の体のふれ方」というきわめて即物的な技法こそ、体をめぐる学びの本質だと彼は言うのです。
 即物的であると言っても、これは「さわる」であってはならないでしょう。序で区別したように、「さわる」は、相手との感情的な交流を考慮しない一方的な接触です。彼の意図はむしろ、相手の事情を思いやりながら、それを尊重するように接触することにあります。この双方向性を意図するなら、接触は「さわる」ではなく「ふれる」でなければなりません。
 そして彼がそのように言うということは、とりもなおさず、いかに人の体にふれるということが難しいか、ということを示しています。

日常生活の中で他者に「ふれる」ことがどれだけあるでしょうか。そもそも「さわる」と「ふれる」の違いは、どのように言葉にできるでしょうか。

「さわる」も「ふれる」も「身体的な接触」という観点では同じ現象と言えば同じかもしれませんが、やはり何かが違う。(物理的な接触を伴わずに"ふれる"ことも技術的には可能かもしれませんが)

「ふれる」という言葉から連想されるのは「相手への配慮」です。本当にふれてもいいのかな...という緊張やためらいの感覚だったり、相手との間にある繊細な境界を壊さずにくぐり抜けていく感覚だったり。

一方で、「さわる」というのは「主体が自分にある」という感じがします。「相手がどう思うか」ということよりも、たとえば触診のように「合理的な理由・文脈」の中での「さわる」もあれば、本当に「自分本位」のさわるもありえます。

体育の授業で「ふれ方」を意識した記憶はほとんどありませんが、それでも組体操のときに相手の手をつかむ、相手の身体に「ふれる」感覚というのは非日常というのか、とても不思議な感じがしました。

中学・高校で握力がとても強い友達がいて、思いきり手を握られて痛かった記憶もよみがえってきました。その友達には「私が感じている痛み」は直接は伝わりませんから、とても一方的な接触ではありました。

相手の身体に接触するとき「相手がどのように感じるか」というのは、どこまでも想像するしかないかもしれませんが、力強く握られたときの「痛み」という感覚があるからこそ、自分が相手の手を握るときに「相手の痛み」を想像し、気づかうことができるように思います。

同様に「ふれる」という場合も、他者との接触の中で「さわる」と「ふれる」の差異が自分自身の中に感覚的・経験的に蓄積されるこそ、「ふれる」を実践することができるように思います。

身体感覚と言葉が一致する。

「ふれる」と「さわる」の違いを深めていくことは、他者との調和の中で「つながる」ためのきっかけを与えてくれるような気がします。

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