「語らずに語る」
絵画や音楽をはじめ、芸術作品にふれる際は、作品に関する説明に「先に目を通さない」ようにしている。
説明に目を通してしまうと、その説明の範疇で作品を解釈してしまう、作品それ自体の可能性を狭めてしまう気がするから。
ふれた瞬間の質感。
「ふれる」とは、肌でふれることだけを意味しない。
目(眼識)でも耳(耳識)でも、鼻(鼻識)でも舌(舌識)でも。
それらはいわゆる「五感」である。
仏教の唯識思想では、その五つに加え、さらに深層にある「意識」「末那識」そして「阿頼耶識」を含む「八識」によって認知が説かれる。
最深部にある「阿頼耶識」とは「個人存在の根本にある、通常は意識されることのない識」(Wikipedia)であるけれど、芸術作品の根本にある「語らずに語られている事」にふれるためには、自分自身が「文字」や「説明」の類による一切の先入観が取り除かれた「空」の状態であることが必要なのではないだろうか。
そして、語らずに語られている事は何も芸術作品に限られるわけではなく、日々、一瞬一瞬にふれるあらゆる物事の中に「語らずに語られている」何かがある。