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"語らずに語られている"ことを受け取る〜空、不立文字、そして八識〜

「語らずに語る」

絵画や音楽をはじめ、芸術作品にふれる際は、作品に関する説明に「先に目を通さない」ようにしている。

説明に目を通してしまうと、その説明の範疇で作品を解釈してしまう、作品それ自体の可能性を狭めてしまう気がするから。

ふれた瞬間の質感。

「ふれる」とは、肌でふれることだけを意味しない。

目(眼識)でも耳(耳識)でも、鼻(鼻識)でも舌(舌識)でも。

それらはいわゆる「五感」である。

仏教の唯識思想では、その五つに加え、さらに深層にある「意識」「末那識」そして「阿頼耶識」を含む「八識」によって認知が説かれる。

最深部にある「阿頼耶識」とは「個人存在の根本にある、通常は意識されることのない識」(Wikipedia)であるけれど、芸術作品の根本にある「語らずに語られている事」にふれるためには、自分自身が「文字」や「説明」の類による一切の先入観が取り除かれた「空」の状態であることが必要なのではないだろうか。

そして、語らずに語られている事は何も芸術作品に限られるわけではなく、日々、一瞬一瞬にふれるあらゆる物事の中に「語らずに語られている」何かがある。

さて、美しい品を宗教的な言葉で「救われた品」と言い得るなら、「かかる品」を仏教的に「成仏した品」という言い方で述べてもよい。それ故物が仏の位を得たものを私達は「美しい品」と云っていることになろう。更にこれを「済度された品」と言い直してもよい。或は又これを「妙好品」と名づけてもよかろう。「妙好」とは清浄な蓮華に譬えた言葉であるから、「妙好品」とは妙なる「み好き品」(美しき品)、即ち「妙美」の品という意になってくる。

柳宗悦『仏教美学の提唱』

所で民芸美の一大特色は右に述べたような「妙美」に豊だという事になる。実にこの如性からもろもろの不思議が現れてくるので会える。尤も如性などと云って了えば既に「如」でなくなるから、真実には「如」は言葉として用いては不充分なことになる。それ故にこそ、禅では「不立文字」という。只人間は人間たる業から、不立文字という言葉も、また文字を用いる事になるから、最后に至ると、言葉はどうどう廻りをする事になって了う。それ故結局は「黙」の一字が重要な意味をもたらすのは必然なことになる。それ故真に美しい一切の品には、「黙」の要素があると云える。饒舌なものは美しくはなり難い。それ故説明的な性質を留めるものは二義的な作品とよりなれない。それ故主義主張の表に出た作品は、真に美しいものとは成り難いのである。

柳宗悦『仏教美学の提唱』
書肆心水オフィシャルサイトより

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