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問いは答えを待っているように、答えもまた問いを待っている〜分からなさに耐える時間を味方につける、ということ〜

「内省する」ということ。

「問いかける」ということ。

問いは自らを内側から破る力となる。

自らを内側から破ってゆくとき、「なぜ?」という問いを足場に過去と向き合うこともある。

振り返って「哲学対話」との出会いが自分の人生の分岐点の一つだったと思えるのは、「答えのない問い(Questions without Answers)」を立て、それに向き合うことが、あり得たかもしれない可能性に少しばかり近付く機会になるのだと気付けたことだ。

それは「分からなさに耐える」ということでもある。

近頃よく実感するのは、哲学とは、流れゆく毎日にストップをかける方法なのだということだ。もちろん時計の針は止められないし、私が考えている間にも世界ではいろいろなことが起こるのだけれど、でも哲学をしているそのとき、私は時間の流れから自分を引き剥がして、「永遠の部屋」に入ったような気持ちになる。

今井祐里さんのコラム『哲学することについて』より

「分からなさに耐える」というのは、いつ答えが出るとも分からない時間を味方につけるということのように思う。

「良き問いは、それ自身が答えの可能性を内包している」

問いは答えを待っているように、答えもまた問いを待っている。

作品においては真理が活動している〔am Werk sein〕のであり、したがってただ真なるものだけが活動しているのではない。農夫靴を呈示している画像、ローマの泉を言う詩は、それらがもし表明するならば、ただ単にこうした個々の存在するものがこうしたものとして何であるかを表明するだけでなく、全体としての存在するものに関して不伏蔵性そのものを生起させるのである。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

ただその農夫靴がよりいっそう単純に本質的に、ただその泉がよりいっそう飾られずに純粋に、それらの本質を発揮しながら立ち現れるほど、それだけいっそう直接的に魅力的にそれらとともにすべての存在するものがよりいっそう存在するものとなる。そのようにして、自己伏蔵する存在は明るくされる〔空け開かれる〕のである。そのような性質の光が、その輝き〔Scheinen〕を作品の内に組み入れる。作品の内に組み入れられた輝きが美しさである。美は真理が不伏蔵性としてその本質を発揮する一つの仕方である。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

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