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流れることから始めよ〜白紙の上を流れるペンの軌跡を通して〜

毎朝、紙とペンをなじませる。

何かを確かめるように、自分を重ねるように。

筆の輪郭を指になじませ、紙にふれて質感をなじませる。

なめらかな質感の紙の心地よさ、ざらざらとした質感の紙の心地よさ。

色々な心地よさがある。

輝くような白さ、あらゆる光を吸収するような漆喰のような白さ。

色々な白さがある。

何も書きたいものがないと思っていても、ペンを片手に、紙に、余白に向き合っていると、不思議と何かを書きたく、描きたくなってくる。

「よし、書こう!」という意気込みがなくとも、ただただ紙の上にペンを走らせていれば、ペンが紙の上を流れれば、軌跡が生き生きと躍動し始めて、あとは「空」から意味が湧き上がってくる。

私の場合、「何かをしよう!始めよう!」という気持ちが先行するよりも、動いているうちに気持ちがついてくることが多いように思います。

「自分は本当は何をしたいのか」を事前に知り尽くすことはできず、事後的に「本当に自分がやりたいこと、語りたいこと、描きたいことはこれだったのかもしれない」と気づく他ないのではないだろうか。

一滴の雫が小川を経て、やがて大きな大河となり海へと至るように、自分が成すべきこともまた一滴の雫のような、小さなことから始まるように思う。

ひとたび流れ始めれば、水路が周囲の水路を引き込み広さと深さを増してゆくように、まずは「流れる」ことから始めてみる。

真理の本質についてのわれわれの知がどれほどわずかでぼんやりしたものであるかは、われわれがこの根本語を使用するさいの粗略さがそれを示している。真理ということで、ひとはおおむねあれこれの真理のことを考える。それはすなわち、何か真なるものを意味している。このようなものでありうるのは、命題というかたちで言表される何らかの認識である。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

しかし、われわれは命題ばかりではなく、何らかの事物、偽の金と区別された本物の金〔wirkliches Gold〕をも真であると言う。真であるとは、この場合、真正の金、本物の金と同等のことを言っている。この場合、本物のものについて語るとは何を意味しているのだろうか。そのような、本物のものとしてわれわれにとって妥当するのは、真理において存在するものである。真であるのは、本物のものに対応するものであり、本物のものであるのは真理において存在するものである。円環はまた閉じられてしまう。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

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