自他未分。内側から重なりあってゆく。
あっ…かたっ…。
朝ヨガをすると、何度も噛み続けたチューイングガムのように縮こまった身体と向き合うことが多い。(日によって真逆のこともあるのだけれど)
チューイングガムのごとき身体の声が聴こえてくると、すぐに「無理せず」「呼吸を止めないで」という声も聴こえるようになってきた。
頑張って伸ばそうとしてもロクなことがない。
少しずつ余計な力みを抜きながら、自分に重力をなじませてゆく。
重力が自分の身体になじんでゆく。
自分が自分になじんでゆく…。
人は呼吸を流しながら、少しずつ身体を解いていく中で自分とのつながりを取り戻してゆくのではないだろうか。
一日を過ごすだけでも、自分の身体は驚くほど状態が違ってくる。
朝起きたての身体と、一日を過ごして全身が動きなれた身体。
夜に仕事を終えてから、ヨガで身体をほぐす。
ほぐしたはずの身体は、朝目覚めると不思議とかたさを取り戻している。
「かたさ」と「やわらかさ」の間の非対称性。
身体は自然とかたくなるけれど、やわらかくならないのはなぜだろう?
身体がかたくなることは、可動域は狭くなったり、怪我をしやすくなるなど、ポジティブに受け止めにくい面があるかもしれない。
けれど、カラダがジワジワっとほぐれてゆくとき、そこには不思議と心地よさがある。自らを観察し、じっくりと向き合う時間がそこには流れている。
その心地よさを何度も迎えられるのだと思うと、自分自身と向き合う機会と思えば、身体がかたくなることは案外よいこともある。
「見方を変える」というけれど、ここでの見るという行為は傍観者のように「外側から眺める」のではなく、自らがその対象と一つになっていくように「内側から重なりあってゆくことで、気付かなかったことに気付く」という感覚に近いのではないだろうか。
自他未分。それが多様な見方を支えているのかもしれない。