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「声に出して自分に問いかける」のススメ〜ぼんやり・なんとなく悩むから"決める"へ〜
「自分に問いかける」
朝目が覚めた時、身体が重かったり、気分がスッキリしないと感じることがしばしばあります。
ヨガに行こうと思っていたけれど、さて行こうか、行くのをやめようか。
頭の中で「ぼんやり」と「なんとなく」悩んでいます。
ですが、この「ぼんやり」とした状態ではなく、あらためて「今日はヨガに行く?それともやめておく?」と実際に「声に出して自分に問いかける」と不思議なもので「今日は行こう。行ってから考えよう」とか「今日は身体の痛みが心配だからやめておこう」とか、意志が定まるというのか「悩みから決断へ」とモードが変わります。
この、「自分に問いかける」モードは、その他に身近なところで自然と使っていて、たとえば「エスカレーターに乗ろうか、それとも階段を登ろうか」を口にしてみると、多くの人がエスカレーターに流れてゆく中で、ほぼ誰も登っていない階段を「颯爽と登りたくなる」気持ちが湧いて、足取り軽く階段を登っていることが多いです。
「ぼんやり」「なんとなく」という無意識の力がいかに強く、そしていかに「囚われているか」ということに気付き、そして見落とされていた可能性や選択肢に気づいて行動を少しでも変える機会として、「声に出して自分に問いかける」ことのススメです。
メタファーは思考や自己表現の助けとなるので、私たちはよく気づかないうちに使っている。たとえば、「彼女は私の意見を攻撃した」、「彼女の見解を打破した」、「あなたの主張は防御不能だ」、「彼の見解は塹壕にはまっている」、「あの件に関しては備え十分で、一切譲歩しない」などという表現はみな、戦争で使われる言葉である。裏には「議論は戦争だ」というメタファーが隠れているのだ。
時間の概念も同様にメタファーで構築されていて、それが私たちの心に微妙な影響をおよぼしていることに気づく必要がある。前述のとおり、産業革命以来、時間を商品とみなすメタファーが広く使われている。たとえば、時間を費やす、時間を稼ぐ、時間を無駄にする、時間を節約する、「時は金なり」、「借りた時間を生きる["余生を過ごす"の意]」など。同じ頃から、「私の時間は私のものだ」、「少しだけ時間をください」といった、時を所有物とみなすメタファーも使われるようになった。この二種類のメタファーは、ともに時間に関するわれわれの問題の根幹をなす心理言語学的な要因である。もし時間が個人の所有物のようなものであるなら、自由に他人に与えることだけでなく、場合によっては誰かに所有されたり、個人の意思に反して不当に占有されたりすることも起こりうるのだ。