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"in"の香り〜Hand in Handの響きから〜

「Hand in Hand」

「手に手を取って」「手をつないで」「協力する」などの意味を持つ、何度も口ずさみたくなるこの言葉の響きがとても好きだ。

自分一人でも、左手と右手を取り合うことができる。

試してみるといいと思う。

両の手が重なりあうとき、触れられているのか、あるいは触れているのか。

その境目は極めて曖昧で、そしてなめらかだ。

ここで考えてみる。

なぜ、Hand "in" Handなのだろうか?

"in"にはどのような意味が込められているのだろうか、と。

"in"も様々な意味がある。

よく用いられるのは、何かの「内側」という意味だろうか。

内側があるということは、外側があり、そして、その境界があることを前提にしているように思われる。

しかし、Hand in Handにおける"in"は、内と外が曖昧だ。

そこには、「互いが互いを包み込む」あるいは「重なりが一致している」という、やわらかなニュアンスがほのかに香る。

響きは香り、香りは響き。

作品が創作されるかぎり、そして創作することが、それからそしてそれのなかに創作するなんらかの媒体を必要とするかぎり、あの物的なものもまた作品の内へと到来する。このことは議論の余地がない。しかし、それでも問いは残る。すなわち、創作されていることは、どのようにして作品に属するのだろうか。このことはただ次の二重のことが明確にされるときにだけ、解き明かされる。
 1 ここでは、創作されていることと創作することは、作製することと製造されていることから区別されて、何を意味するのか。 
 2 作品そのもののもっとも内的な本質は何であるのか。
ただこれからのみ、創作されていることはどのように作品に帰属するのか、そして創作されていることはどの程度まで作品の作品存在を規定するのか、ということがはじめて測定されうる。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

創作はここではいつも作品との関連で思索される。作品がその本質を発揮するには真理の生起が不可欠である。あらかじめわれわれは、創作の本質を、存在するものの不伏蔵性としての真理の本質との連関から規定する。創作されていることが作品に帰属するということは、ただ真理の本質のよりいっそう根源的な解明に基づいて明らかにされうるのである。真理とその本質とへの問いが繰り返される。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

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