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「信念や価値観の形成」と「囲まれた環境の快適さ」

今日も引き続き『ソーシャル物理学 - 「良いアイデアはいかに広がるか」の新しい科学』(著:アレックス・ペントランド)より「習慣、選択の優先規準、好奇心は何で動かされるのか」を読みました。

人の判断や行動は情報やアイデアの流れに大きく左右される。前回は著者による社会実験の結果が紹介され、特殊なソフトウェアを組み込んだスマートフォンから集めた学生の行動データから明らかになったのは、「どのような人と交流するかが健康を左右している」という実態でした。

生活の中で、意識的に何かを決める・行動することのほうが少ないと思います。日常生活のありのままをデータ化すれば、そこには当事者の無意識の行動・判断が少なからず含まれているはずです。アンケート調査のように設問が回答を左右する(バイアスがかかる)可能性を抑える利点があります。

選択の優先規準…食べ過ぎという行為は、周囲の人々の行動を自然と「吸収」してしまう例のひとつと言えるだろう。「郷に入っては郷に従え」というわけだ。しかし周囲にある行動の例は、どのようにして信念や価値観など、より理性的で考え抜かれた思考に影響を与えるのだろうか?

著者は「周囲にある行動の例がどのように信念や価値観などを変えるのか?」と問いかけています。信念や価値観の変化は、雷に打たれたように突如として起こるのでしょうか。あるいは、気付かないうちに少しずつ起こるものなのでしょうか。自分事として振り返ると、両方のパターンがあるように思います。

たとえば、書籍や芸術にふれて「何を表現しているのだろう」「こんな考え方があるんだ」と衝撃を受け、それを誰かに伝えたり反芻して自分の言葉で表現してゆく中で、次第にモノの眺め方がガラッと変わることがあります。

一方、最初は何の意味があるのか、何の役に立つのか分からないことでも、続けているうちに「もしかしたらこうかもしれない?」と自分の内側から疑問が湧いてくる瞬間があります。価値観が変わるというのは、時に「疑問」の形を取るように思いますが、その疑問が否定を伴う(ストレスを感じる)こともあれば、否定を伴わない場合もある。前者の場合は、価値観の変化がゆっくりと進むような気がします。

より重要なのは、同じ意見を持つ人物への接触の量によって、学生の最終的な投票行動を予測できたという点だ。(中略)では投票行動に影響を与えなかったものは何だろうか?被験者が政治的な会話を行った相手の考え方と、友人の考え方は影響を与えなかった。体重増加の場合と同様に、アイデアの流れと意見の形成を最も力強く後押ししたのは、周囲にいる知人たちの行動(被験者の周囲を囲んで規範を示すような一連の行動)だった。

「食べ過ぎ」という事象だけでなく「政治的意見」についても著者は同様の社会実験を試みたそうです。政治的意見の表明は投票行動に結実するわけですが、日常の行動データを分析した結果として、「周囲にいる知人たちの行動がアイデアの流れと意見の形成に強く影響を与える」ことが明らかになったのは興味深いです。

「友人の考え方は影響を与えない」ということですが、考えているだけでは足りず、実際の行動を示すことが必要。これは社会的学習における「模倣」の力の表れであるように思います。

目にしたり、耳にしたりすること。その体験が、受動的なものから能動的なものに変わっていく。耳をそばだてる・聞き耳をたてるのは注意を能動的に向ける営みです。直接的な会話であっても受動的に参加している場合、信念や価値観を変える力は強くないのかもしれません。

少し安心できるのは、個人の優先規準が一定の役割を演じている点である。学生たちが一緒に過ごす集団を選ぶ際、判断材料となっているのが、その集団内で何気なく交わされる言葉や意見に、どの程度の快適性を感じられるかであるようだ。この選択的接触の後に、政治的意見の強化が行われることになる。いったんどの立場を取るのかが決め得られると、似たような意見に接触する機会が増え、次第に意見が形成されて最終的には信望者へと変貌する。

「集団内で何気なく交わされる言葉や意見に快適性を感じる」ことが信念や価値観を強化する。

「集団の同質化」が起きるのは時に「快適」を伴うからのように思います。一緒に過ごすのが楽しい、学びになる、励みになる。逆のこともフラットに言える、弱みを見せることができる。

「反対意見を肯定的に受け止める」というのは、同じ方向性を向きつつも、盲目的になることを防ぐ意味で重要なことのように思います。その意味で、「傾聴するとはどういうことか?」「傾聴しているだろうか?」という問いを大切にしている集団はしなやか(反脆い)のだと思います。

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