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結ぶということ。ほどかれる可能性、そして超個の個。

「結う・結ぶ」という営みについて、思うままに綴ってみます。

糸を結ぶ、手を結ぶ、縁を結ぶ。

結ぶという営みの対象はとても広くて、物理的なものから目に見えないものまで様々です。

具体的に糸や紐のようなをイメージしてみると結び方も様々。固結び、蝶々結びなど。ほどけないようなきつい結び方、ほどけない強さを持ちながらも簡単にほどきやすい結び方、華やかな見栄えの結び方。

結ばれた後の状態に注目すると、そこには「結び目」「余り」が存在し、「緊張(かたさ)」「弛緩(ゆるさ)」という力の均衡や調和が内在しています。

そして、一つに結ばれることはそれぞれの糸や線がバラバラに分解して結びつくのではなく、元の形を保ちながら一つになっています。このことは日本の哲学者である西田幾多郎氏が唱えた「超個の個」という考えに通じているようにも思います。

「故に我々の自己は、何処までも自己の底に自己を越えたものに於て自己を有つ、自己否定に於て自己自身を肯定するのである」

結ぶという営みは「ほどかれる可能性」を含んでいて、それはその先ずっと結ばれているかもしれないし、何かしらのきっかけで再び分かれるかもしれません。

つまり「結ばれる」というのは「従属」や「隷属」ではない、発展的解消、変更可能性を含んでいる。何かが終わるから始まるのだとすれば、逆に何かが始まるためには、何かを終わらせる必要がある。

結ぶという営みには、豊かな調和、中庸が含まれているように思うのです。

皆それぞれ、その人なりの時間の流れがあって、細やかなグラデーションで変化していってる。どこかの地点がゴールであることなんてなく、いつも常に通過点でしかなく、気づきの連続でしかなく、その時の最上を目指して泣き笑っている。そんな中で、一瞬でも誰かと誰かが交わったなんて、もうそれだけで奇跡的で、それでいいやんと素直に思うようになった。

高木正勝『こといづ』 にじみ

そして、その時「わからない」ものは、簡単に否定してしまわないで「今はわからない」とひとまず横に置いておくことにしている。ある日、「最高!」が「色褪せた」に変わったり、「わからない」が「こういうことだったのか!」に変わったりするのだから。

高木正勝『こといづ』 にじみ

過去をやり直すことができないとしたら、なぜ人はこんなに過去を思い悩み、後悔するのか。無駄に心を苦しめているだけなのだろうか。過去とは現在を苦しめるために存在しているのか。過去とはいったい何か、いかなるものなのか。(中略)過去への郷愁も後悔も慚愧も、未来との関わりを取り除いても、それ自体で価値があると私は思う。それを「過去との和解」と呼ぼう。

山内志朗『過去と和解するための哲学』


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