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身体という器〜動作と状態の円環〜

「日々の生活が身体に蓄積されてゆく」

ヨガのポーズには片足立ちを伴うものがありますが、足が大地をしっかりと捉えているか否かで、全身の筋肉の使われ方が全く変わってきます。

内体重と外体重。

足の外側に体重が乗ってしまうと、身体が外側に流れてしまい、バランスを保つことが難しい。

一方、足の裏の内側から中心部を意識しながら均等に体重がかかると、内転筋群がしっかり働いて、身体の中心軸に重心が乗り、身体のバランスが安定します。

体重が内側に乗る日もあれば、外側に乗ってしまう日もある。

「この違いはどこから来るのだろうか」と考えてみると、日々の歩き方が既に内体重な日もあれば、外体重な日もあることに気が付きます。

無意識のうちに日常の生活、動作が身体に蓄積され、自分を形作っている。

身体という器において、動作と状態が円環を成す。

満々と水をたたえた姿に心を動かされることがある。春の黒部ダムがこの例である。雪解け水を器いっぱいにたたえた黒部ダムは、豊かさを伴っていた。(中略)流れの水量の豊かさが、心を動かす例がある。『栄花物語』には、「遺水の例よりは廣く流れたる、いとをかし」とあり、『蜻蛉日記』には、「川の水を思う存分、邸内に引き入れて……風情ある住まい」と記述されている。地下水脈の豊かな平安京であったとは言え、湧水だけにたよっている状態では、水を思う存分に庭に獲得することは、きわめてむずかしいことであったようである。

鈴木信宏『水空間の演出』

G・バシュラールは、出現して、嵩を増す水に母性をイメージしている。「水は芽を膨らませ泉を溢れさせる。水はいたるところに生れそして嵩が増えるのが見える物質である。泉は抑えきれない誕生、持続する誕生である」と。平安の人々にとって、水は花や月を宿すものであり、嵩を持つ実体であった。『宇津保物語』には、「色々の花のかげのみやどりくる水底よりぞ春はわかるる」とあり、『栄花物語』にも、「大空と池の水とにかよひすむ在明の月も西へこそ行け」とある。G・バシュラールは、「水量における美しさ」を次のようにとらえている。「すべての反映を見終えたとき、ひとは突然水それ自体を凝視するのだ。そのときかれは…….水というものが内面的で積極的な美、つまり水量における美しさであることに気がつくのだ」と。

鈴木信宏『水空間の演出』

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