2018年12月に削除した詩客の短歌時評のこと、特に削除事由となった鳥居さんの告発について確信していること

私は去年、詩客に書いた原稿で筆を曲げました。

阿波野さんに対して行われている鳥居さんの告発は起きた出来事を明らかにして欲しい旨を、言葉を選ばずに書き、そして消しました。


森川さんとはこの記事に関わる全てをなかったことにしたいという提案を受け、同意しました。


それから一年間、その原稿について毎日考えました。もっというと、私は詩歌でも文筆ではなく、私の友人について考えました。


ようやく書く時間を取ることができたため書いています。


1)

私は阿波野さんに対して行われている鳥居さんの告発はどのような形であれ、検証が行われるべきだと感じています。


鳥居さんは彼のことを何年も何回も取り上げ、その度に自分のtweetを消しています。

正直なところ、私は、鳥居さんは知っていると思います。

現在の日本の、短歌の世界の中で、告発することで得られるものは、大変少ないこと。

そして、告発よりもしたいことはたくさんあり、したいことのほうが得られるものが大きいこと。

告発して、彼から得られるものはない可能性が高いということ。

これら全てをを知っていると感じています。


鳥居さんが何年も立ち位置を変えながら、それでも同じことを発言している以上、検証が必要だと感じています。


2)

私は自分が昨年詩客で様々立ち回った末、原稿を取り下げたことに対し鳥居さんに申し訳なく感じています。


友人だと感じている人の身に起きたことをコンテンツとしてしか使わなかったと感じています。


一度振り上げた拳を下ろしたことで、味方をなくしたと鳥居さんは考えていると思っています。

本当にこの一年申し訳なく思っています。

そして、私がこのことを自分個人のメディアであるnoteにかけなかったのは、純粋に時間がかかり、そして生活に押し流されていたためです。

この意味に置いても私が鳥居さんの告発を他人事としてしか使えないことは明らかで、申し訳なく感じています。


3)
私自身は当時阿波野さん本人及び詩客の運営サイドからの働きかけがありました。

詩客への抗議の可能性をほのめかされました。


過去の鳥居さんの発言より阿波野さんが民事を辞さない人であることを承知していました。

私も森川さんも住所を現代詩手帖に公開している人間です。

訴訟ありきで動かれた場合、あちらの都合のいい場所で争う必要があり私については金銭的には耐えられない。(森川さんも)ということが想像がつきました。


後述しますが、詩客については私は運営を外れたとはいえ、創設の経緯から一般人の程度を超えた執着と現運営に対する相当の責任を感じています。自分が泥をかぶって運営が止まらないなら、そちらの方がいいと考えていました。

一般的に考えている文筆の人なら、この選択を取らないと推測しています。

これは私の組織に対する過度な順応性と、人間性に起因すると考えてください。


4)
何も明らかにされない状態で詩客にて文章を書くことを通じ、私は自分自身の過去の人間関係から、何らかの形で私に個人的にリアクションする方がいると考えていました。

記事を複数の方に送り、叩くことで記事を残すことを考え、そのように依頼もしたりしていました。


ほぼ誰もリアクションを取らないのを見ていました。

自分自身の力の無さに愕然としたことも、当時記事を消すことに同意した理由の大きなものです。


数人についてはその後、記事を消すまでの時間が短かったため、リアクションが取れなかったことを確認しましたので、これは私がチキンだったと考えています。


5)

私は自分が昨年詩客で様々立ち回った末、原稿を取り下げたことに対し詩客・正しくは森川雅美さんに申し訳なく感じています。


詩客、ないし森川さんについては、鳥居さんよりも文字数がかかります。

詩客が現在のようにいくつものサイトに分断されたブログになる経緯において、私は相当の責任を負っていると感じています。

私は2010年の詩客ができたとき、コーディングと唯一の記事の更新者として参加していました。

2012年に個人的な事情で逃げるようにやめるまでの二年間に、私自身は詩客をマネタイズすべきだし、本来できたと感じています。(月に10万viewあったのです)


今現在も詩客がボランティア運営を行なっており、運営とWEBの更新者に多大な心労を注がせていることに、私は戦犯の一人だとこの7年感じています。詩客がマネタイズされていれば、運営が強気で物申すことができたでしょう。


つまりどういうことかというと、加藤治郎さんが玲はる名さんに脅迫したときに、詩客の運営にて彼女を守る選択肢をとれたと考えています。


そういう意味で、私は旧来体制を長く保存してきた戦犯ですし、当該記事を下ろしたことで、詩客のメディアとしての信頼を落としました。


そして今に至っています。

現在、中島裕介さんによる告発によって起きている状況は、一人一人の人を平等に扱うという意味でいい方向だと考えています。

ただ、そこに対し悪い例の一人として自分の恩人の、おそらくいい面が関わってしまっていることについて私は悲しく思い、そして、前述の通り、彼に資金をつけられず、今日に至ってしまったことに責任を感じています。
 
6)

長々書いたのですが、結局のところこの一年間過ごして考えたのは、私は彼さんに対して行われている鳥居さんの告発はどのような形であれ、検証が行われるべきだと感じています。


それと同時に、つまりこれは、私は阿波野さんから現在まで行われている自分が潔白であるというお話を受け入れていないし、おそらく私は彼が本当に潔白であったとしても、受け入れられないと考えています。


少なくとも、私は鳥居さんが嫉妬心などで人に粘着する人でないとこれまでも信じているし、これからも信じています。

鳥居さんが人のことを信じられない方であったとしても、現時点で彼にかかずらわう必要はないと考えているます。

彼のことを言及することで、失うものの方が多いと考えています。

やはり、彼女の痛みにはきちんと寄り添う形での検証が行われることを望んでいます。


7)

付け加えると、この数年論じられている、力関係を背景にして性的関係を迫ることは私もやっていたのでは、と感じています。


私自身がイベンターであり、意義のあるべき冊子を作っている人間だと認識しています。

それと同時に、あいまいな性的同意と誤った価値観のもとに恋愛感情と性的関係を作っていた人間だと認識しています。

いま、私がのほほんと本を作れるのは、被害を受けている人が私を容赦してくれているか、私を訴えることで得られることの少なさか、それとも被害を受けうる人が巧みに私を避けてくださったからなのではないかと考えています。


性的な被害を訴えることは、日本国において、訴えた人に対し多大なストレスと外部からの損害を与えるからです。


私が容赦されているとしたら申し訳なく思っています。それは、metoo以前から思っています。


それは私の想定していない人からの容赦がほとんどだと考えています。

 

『て、わた し』は、私だけのプロジェクトではなくなってきており、自分が告発されることによる様々な方への被害は承知しています。


第7号のフラニー・チョイさんの詩を翻訳したとき、私が選んだ詩は女性に対して人種差別と性差別を行った男性を告発するものでした。


私自身はきちんと自分が広めていきたい価値観と生活すべきだと考えています。

さらに付け加えるなら、私の価値観は、この国の様々な競争に勝ちぬくことを優先し、さまざまな高いものを得たと考える方の過半-つまり男性-のうちの過半の考えと違うと感じています。


8)

最後になりますが、鳥居さんの告発はどのような形であれ、検証が行われるべきだと感じています。


そして、おそらく通りいっぺんの説明では、私は信じないと考えていますが、私の感情はさておき、検証してほしいし、鳥居さんが永きに渡り、このことを書いていること、さらに何も行われないことによって当事者双方が被っていることについて、きちんと寄り添われる必要がある思っています。

そして、きちんと検証し、対処することで、二人とも、そして二人の周りにいる人にとってもいいと考えています。


16年後、私の息子が詩歌を書きたいと話したとき、詩歌を行う人や団体がきちんとした場所であると、伝えられるようになってほしいと心から願っています。