古代日本の王権(試論)

古代日本の王権(試論)  Hindy Quest   阿蘇山
Hindy Quest 氏との共同研究で以下の試論を行う。
日本の遊牧騎馬民族文化と海洋民族文化について文化人類学、神話学からのアプローチと歴史学からのアプローチを試みる。
仮説①飛鳥時代に設置された三関を始めとする関は経路を塞いでる自然の山脈とセットで万里の長城を構成していた。(Hindy Quest)
仮説②日本への海路は4系統あり日本へは4系統の民族が流入している。古事記・日本書紀に伝わる神話は最低でも4つの異なる神話が合わさった物であった。(阿蘇山)
仮説③蝦夷とは滅ぼされ切らなかった蘇我氏の一族を指し、乙巳の変の以後、蘇我氏まで伝わっていた玉(翡翠)の産地と製法の情報は断絶して翡翠は昭和一三年に糸魚川で再発見されるまで失われた。蘇我氏まで伝わっていた王権の正当性を主張するために日本書紀が編まれた。(Hindy Quest)
仮説④ウケヒ神話は蘇我氏と皇室との子ども交換を語った神話であった。7世紀の歴史のことを古代のそれ以前の時代のこととして記録したものと推定される。(Hindy Quest)

江上波男が提唱した騎馬民族征服王朝説(江上波男1947年)では主として朝鮮半島からの民族の流入について述べているが、日本には4系統の海路
海路①朝鮮半島から山陰北九州
海路②中国台湾沖縄から朝鮮半島南岸九州四国
海路③インドネシアフィリピンから東海道
海路④沿海州樺太千島から山陰北陸北海道東北
があり、波状的時差を持って日本にこの4系統の海路で民族が流入していると考えられる。(阿蘇山)
海路①は現代でも韓国方面から山陰に漂着物が流れ着くことから海流が到る海路として推定され、海路②は稲と鉄の伝播ルートとして推定されており、朝鮮半島南岸から沖縄へは幕末に英国の軍艦ライラ号とアルセスト号とが航海してライラ号艦長のベイジルホール(バジルホール)が航海記("Account of A Voyage of Discovery to The West Coast of Corea, and The Great Loo-Choo Island in The Japan Sea"(朝鮮琉球航海記)1818年)を著している。海路③は島崎藤村が椰子の実の詩に詠んだ明治三一(1898)年に柳田国男が語った伊良湖岬恋路ヶ浜に椰子の実が漂着したことにより海流の到る海路として推定される。海路④はアイヌの航海ルートであり沿海州から北陸へは刀伊の入寇より少し後に女真文字を刻んだ漂着船が北陸に到ったことで推定される。(阿蘇山)

古事記・日本書紀の神話はタカミムスヒ神話系統、アマテラス神話系統、スサノヲ神話系統、ニニギ神話系統の4系統の神話が接着剤で合わさるように一つの神話として語られて口伝で伝わる。タカミムスヒ系統が海路①をやってきた遊牧騎馬民族、アマテラス系統が海路②をやってきた稲と鉄の農耕民族、スサノヲ系統が海路③をやってきた海洋民族、ニニギ系統が海路④をやってきた赤翡翠を持つ遊牧騎馬民族ではないかと仮定する。(阿蘇山)
皇室が占めた王権を示す三種の神器もアマテラス系統の八咫鏡、スサノヲ系統の草薙剣、ニニギ系統の八尺瓊曲玉をそれぞれアイテムとしている。(阿蘇山)
アマテラスは皇祖神ではなかったかもしれないという説(「三種の神器」 戸矢学 2012年)が推定されており、翡翠の産地や玉の製法は乙巳の変以後に蘇我氏から伝承されず(Hindy Quest)、八尺瓊曲玉は赤翡翠のことであろうと推定される(「三種の神器」 戸矢学 2012年)。ウケヒで登場する八坂瓊之五百箇曲玉は緑翡翠を含む装身具でありスサノヲ系統の王権のアイテムであったと推定される。蘇我氏との権力闘争に勝利した皇室の朝廷が蘇我氏が勢力を保持する東北への障壁(バリア)として関を設ける。やがて東北を経略していき最終的完成は源頼朝の奥州平定である。(Hindy Quest / 阿蘇山)
奈良時代以降軍事的緊張が高まったり政権の権力空白などが生じたりすると行われた固関は主に東北への障壁として機能していた関で行われ、有職故実で規定された固関の儀式を見ると固関使は偽物を排除する性悪説による鍵である木契を開封すれば発覚する仕掛けを施して固関使に持たせて(「柱史抄」天皇譲位事)開関使が鍵を持参して照合するまで関は閉じた。そこまで厳重に関を封鎖することは蘇我氏の勢力を重大に敵対勢力として認識していて政権としての朝廷の隙を突いて転覆することを警戒していたことを物語る。(Hindy Quest / 阿蘇山)
昭和一三年に再発見されるまで翡翠の産地の情報は失われていた。糸魚川で再発見された翡翠と各地の縄文時代から古墳時代の遺跡から出土する翡翠の玉とを蛍光エックス線分析すると組成がほぼ同じで、翡翠の玉は糸魚川産だということが明らかになっている。(「翡翠」寺村光晴1968年「古代日本と玉文化」森浩一2006年)
スサノヲ神話の民から蘇我氏まで王権のアイテムとして受け継がれてきた緑翡翠の玉は縄文時代から古墳時代にかけて各地の遺跡で糸魚川産の翡翠を原料とする玉が偏在しており、皇室は乙巳の変以後この王権のアイテムを継承出来ず、産地の情報や製法も蘇我氏が消去してしまいわからなくなる。皇室は自らの王権の正統性を主張するために日本書紀を編纂する。(Hindy Quest)
奈良時代に固関しはじめる三関は当初越前伊勢美濃で、翡翠の産地の糸魚川は越前関より東北にある。
本来神器は三種ではなく五種で、四つ目が八坂瓊之五百箇曲玉、五つ目が十握剣であったと推定される。皇室は十握剣と八坂瓊之五百箇曲玉を継承出来なかった。それで神器は三種になったのではなかろうか。八坂瓊之五百箇曲玉に関してはスサノヲ神話の系統の蘇我氏の王権のアイテムであったのだが乙巳の変以後、八坂瓊之五百箇曲玉の情報と現物そして玉の産地が糸魚川であるということを蘇我氏が消去してしまい(Hindy Quest)翡翠は奈良時代には失われる。十握剣はタカミムスヒからアマテラスに伝わるが、三種の神器の草薙剣とは別のアイテムである。神話で意図的に草薙剣と十握剣を混同しスサノヲ神話の王権を否定するために日本書紀では草薙剣はアマテラスに献上されたこととされたのであろう。ヤマタノオロチ退治では草薙剣だったものが十握剣とされタカミムスヒからアマテラスへの王権の継承の話を補強するものとして語られる。だが十握剣はいつの頃にか失われる。(Hindy Quest / 阿蘇山)

熱田神宮の宮司である尾張氏は海人系の氏族でスサノヲのドラゴンスレイヤー譚であるヤマタノオロチ退治とは平田靱負たち薩摩藩士が宝暦年間に治水を完成させる前の木曾三川の洪水を治めた話のことであろうと推定され、尾張氏は海路③を通り日本へとやってきて尾張に定住した海洋民族の一族であろう。ヤマトタケルが伊勢能褒野で亡くなった時に帯びていた草薙剣を尾張氏が預かり熱田神宮を造営して祀ったのである。三種の神器のうち八咫鏡は伊勢神宮、草薙剣は熱田神宮と三関の一つ鈴鹿関より畿内からみて関の東に祀られており、この二つは三種の神器ではあるが皇室本来の王権のアイテムではない可能性がある。明治天皇になるまで歴代天皇は伊勢神宮への参詣をしなかったという。皇室はニニギ系統の神話の一族でそれを象徴するアイテムは八尺瓊曲玉である。蘇我氏はスサノヲ系統の神話の一族でアイテムはインドラの色の緑翡翠の玉を含む装身具の八坂瓊之五百箇曲玉である。スサノヲはインドラと同じドラゴンスレイヤー譚の英雄であり、水を制御する存在として語られる。ドラゴンスレイヤーの証が緑翡翠、玉だったのではないか。インドラは暴風雨の神を従えて行くという話がリグ・ヴェーダで語られる。ヤマタノオロチは暴れ川のことである。
インドラのドラゴンスレイヤー譚は幾度も行われているのに対しスサノヲのドラゴンスレイヤー譚は一度きりなので (山下博司「古代インドの思想」2014年)、インドラのドラゴンスレイヤー譚とは定期的に発生するサイクロンに起因し、スサノヲのドラゴンスレイヤー譚は古代に伊勢湾を襲った台風に起因する話であろう。
スサノヲ神話の王権のアイテムは草薙剣と八坂瓊之五百箇曲玉の二つである。(阿蘇山)

ウケヒ神話においてスサノヲの八坂瓊之五百箇曲玉とアマテラスの十握剣とを王権のアイテムとして交換して子どもを交換したと推定され、八坂瓊之五百箇曲玉と十握剣は失われる。(Hindy Quest / 阿蘇山)
三種の神器を設定した奈良時代以降、八坂瓊之五百箇曲玉と十握剣は失われていたので神器から外され、アマテラスの八咫鏡、スサノヲの草薙剣、ニニギの八尺瓊曲玉の三種を神器としたと考えられる。(阿蘇山)
ウケヒ神話で出てくる曲玉は八坂瓊之五百箇曲玉で八尺瓊曲玉とは別のアイテムである。八坂瓊之五百箇曲玉は緑翡翠の玉が含まれた装身具だったと思われる。八坂瓊之五百箇曲玉と十握剣とアマテラスの子どもとスサノヲの子どもとを交換したのである。(Hindy Quest / 阿蘇山)
王権のアイテムはタカミムスヒからアマテラスに伝わった十握剣、アマテラスの八咫鏡、スサノヲの草薙剣と八坂瓊之五百箇曲玉、ニニギの八尺瓊曲玉だったのだが、本来継承されるはずだったタカミムスヒの十握剣とスサノヲの八坂瓊之五百箇曲玉は失われたのである。(阿蘇山)
日本への四系統の海路で海路①のタカミムスヒ神話の民、海路②のアマテラス神話の民、海路③のスサノヲ神話の民、海路④のニニギ神話の民、この四つの神話の民がやって来て合わさり日本人となったと推定される。古事記・日本書紀の神話はこの四つの神話が接着剤でくっついたように一つの神話として伝わったものである。(阿蘇山)
アマテラス神話とタカミムスヒ神話とは二つの神話が接着剤でくっついたように一つになったという説を唱える人々がいる(溝口睦子「アマテラスの誕生」2009年)がもう少し神話を読むと四つの神話が接着剤でくっついたように一つになったものである。(阿蘇山)

『日本書紀』推古28年8月
秋八月掖玖人二口流来於伊豆島
「日本書紀」推古28(620)年8月に掖玖人が伊豆島に漂着した記事があり、掖玖とは屋久島のことと推定されていて、(「古代日本と南島の交流」山里純一1999年)この記事から屋久島種子島から東に伊豆大島方面に黒潮ルートがあることがわかる。海路②と海路③とを接続するルートがあるということである。(阿蘇山)
沿海州から日本海沿岸へのルートを海路④に含めたが、女真や渤海がやってきたルートの一つや京都ハリストス教会を作った聖ニコライがやってきたルートは沿海州から丹後半島へのルートである。京都ハリストス教会が語る伝承によれば京都ハリストス教会は創立の地が丹後半島の間人で最初聖ニコライは間人で布教し教会を作りそれが京都ハリストス教会となったという。聖ニコライは沿海州から間人に直接、船で来たということが推定される。(阿蘇山)
日本海沿岸の三つの半島、島根半島、丹後半島、能登半島へは沿海州から朝鮮半島東岸を経て、リマン海流と対馬海流で至る海路がある。海路①と海路④とは日本海を周回するルートとしてあり、島根半島、丹後半島、能登半島へは沿海州から人間がやって来ていたと推定される。(「古代の技術を知れば『日本書紀』の謎が解ける」長野正孝2017年)(阿蘇山)