お正月だから、新しい歯ブラシを用意しました、っていう話です。
お正月にいろんなものを新しくする習慣がある。
というか昔はあったというか。
いや。いまもちゃんとやってるひとは、やってるんだろうなあ、と思うけど。。。
たとえば、元旦の朝に、新しい歯ブラシ、新しいタオル、新しい下着、新しい靴下、新しいシャツを出す、みたいな。。。
自分の子どもの頃は、新しい歯ブラシの記憶はあるけれど、いまの自分は、ぜんぜんやってない。
12月にこなさなければならないタスクが怒涛過ぎて、お正月を考える余裕がないんだよね。。。
コンビニや 24時間スーパーに行けばいつでも買えると思うと、ことさら新しくする必要を感じないし。。。
今日の聖書の言葉。
お正月の文化人類学的構造というのを過去に考察したことがあった。
お正月って不思議なほどクリスマスの文化人類学的構造と類似しているんだよね。っていうか、ほぼほぼ同じ。
だから結論は、クリスマスプレゼントはお年玉と機能的に同一なので、合わせてひとつにしてかまわない、っていうことだったんだけど。。。子どもたちから怨まれちゃうよね、そんなの言ったら(笑)
それらの詳細はスキップして構造を大まかに言うと。。。
秋の豊かな実りを生み出した「世界」は衰えて冷えて行き、暗くなる。その暗さは冬至から正月にかけてピークに達する。
世界が冷えると、生者の世界と死者の世界を隔てていた結界の扉が開いて、死者が大挙して生者の世界に来訪する。
死者たちのアバターはその土地によって、魔女ベファーナだったり、山の老人だったり、トロールだったり、クリストキントだったり、聖ニコラスだったり、日本の場合だとナマハゲだったり歳神だったりする。
これらの来訪者に対して、生者は居住まいを整えて迎え入れ、ごちそうで饗応することで、死者たちを力づける。
死者たちが満足すると、世界のネジは巻き戻され、元気を回復する。そうして死者たちは、元気のしるしであるプレゼントやお年玉を生者に授け、死者の世界に戻って行く。
プレゼントやお年玉を受け取った生者は、健康や豊作といった祝福にあずかり、こうして結界の扉は閉じられ、すべてのものごとが新しくされ、日常が再び始まるのだ。
こういう文化人類学的構造は、人間の深層意識のなかで個人の垣根を超えた形で広がっているんじゃないかと思う。それは集団的無意識とか神話とか呼ばれる。
神話と言うと無知蒙昧な古代人の迷信というイメージがあるけれど、それだけじゃないよね。現代を生きるわれわれの意識の下部にだって、こういう構造がいまなお存在し続けているんじゃないのかなー、って思う。だからクリスマスもお正月も廃れないで、毎年繰り返されているんじゃないだろうか。
そうして、護教家である C.S. ルイスの名言によれば、世界のすべての神話が現実となったのがイエス・キリストの出来事なのだ。それを自分は信じている。
つまり、どういうことかというと。。。
疲れ、古び、病み、衰えて行く「世界」は、いよいよ暗くなり、人類と共にオワリを迎えつつある。けれど、死者の世界から復活したイエスは、よみがえりの命をわれわれに授けてくれる。それは、永遠の命のしるし、ではなく、永遠の命の実体そのものであるところの「御霊」すなわち聖霊だ。
われわれはイエスから御霊を受け取る。すると、われわれの存在のあらゆる次元が新しくされる。それは、新しい歯ブラシ、新しいタオル、新しい下着、新しい靴下、新しいシャツどころではない。頭の先からつま先に至るまで、全存在、全細胞、全DNA、全身、全霊が、新しくなるのだ。
それがいかにピカピカの状態か、ということについて、新約聖書は「しみも、しわも無い状態」というふうに表現している。
さて、現状。。。
われわれにも教会にも、しみ、しわ、そのたぐいのものが、ありまくり、なのだ。。。
なので、これは、まだまだお年玉、じゃなかった、御霊をもらい足りない、ということなのかもしれないねー。
イエスさま、もっと、もっと、わたしにも、あのひとにも、このひとにも、世界にも、あなたの聖霊を注いでください! すべてを新しくしてください!
だから、この祈りを、祈ろう。。。
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