「いやだなあ」と少しも感じない状態になる、ってことは、ほとんど実現不可能なほどハードルが高いよね。
中学生のときにクリスチャンになって、聖書と共に熱心に遠藤周作の本を読んだ。小説よりは狐狸庵先生のエッセイのほうが好きだったけど。
おもしろいなあ、と思ったのは、「日本人には原罪の観念がない」と遠藤が繰り返し書いていたことだ。
西欧のキリスト教が日本人の感覚に「いかに合わないか」を 1950年代のフランス留学を通して骨身に凍みて経験した遠藤は、じゃあ、合わないものを、どうしたら合うようにできるか、ってことをライフワークとして文筆活動したんだと思う。
今日の聖書の言葉。
だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。
使徒言行録 3:19 新共同訳
日本人の 99パーセントがクリスチャンではない現実を見ると、遠藤が言ってたことは正しいのかもしれないねー、という思いになる。
やっぱり、日本には原罪の観念がないのだろうかね?
原罪の観念はないとしても、「罪」の観念は、あるよね。だって、ツミっていう日本語があるわけだから。
日本大百科全書によれば、ツミは、ツツミから来ていて、ツツシム(慎む)という言葉もその派生語らしい。
もともと日本語では「つみ」という語は、「つつみ」のつづまった形で、「つつむ」という動詞に由来する。何事にせよ悪いことがあるのを「つつむ」といい、古語の「つつむことなし」「つつみなし」(悪いことなし)とか「つつしむ」などは、いずれもそこから派生したものである。したがって日本古代においては、道徳的悪行のみでなく、病をはじめとするもろもろの災いや穢(けが)れたこと、醜いこと、その他何でも世の中の人が憎み嫌うことはすべて「つみ」とされた。(by Kotobank)
この説明によれば、われわれが生きている上で経験する「いやだなあ」と感じることは、なんでも、ぜーんぶ、ツツミ=ツミ、ってことになるよね。
● 朝、起きて、テレビのスイッチをつけると、悲しい事件を報じてる。いやだなあ、と思う。。。ツミだ。
● スーパーのレジに並んでると、列に割込みされた。いやだなあ、と思う。。。それもツミだ。
● 健康診断の結果が戻って来て、要注意の項目があるから再検診、ってコメントされてた。いやだなあ、と思う。。。それもツミだ。
● 自分、こんなことしちゃいけないって、わかってるはずなのに、やってしまった。この後ろ暗い気持ち。いやだなあ、と思う。。。それもツミだ。
。。。こんなだったら、もう、人生、ツミばっかやん!
もし、生きていて「いやだなあ」と感じることはすべてツミ、という感覚で行くなら、今日の聖書の言葉は、こんなふうにパラフレーズができるかもしれないね。
人生からすべての「いやなこと」が
消えるように
悔い改めて立ち帰りなさい
悔い改めてイエスさまを信じたら、「いやなこと」が人生から、ぜーんぶなくなる! って言うんなら、どんなにいいだろうなー、って思っちゃう。それこそ、福音だ。
でも、中学時代から40年ちょいのクリスチャンとしての自分の経験に照らして考えると、うーん。。。いや。。。別に。。。悔い改めてイエスさまを信じても、ぜんぜん「いやなこと」消えませんけど。。。何か? って感じだね、正直なところ。
だから、やっぱり、罪=ツミ=自分が感じる「いやなこと」っていう解釈は、間違いなのかもしれないねー。
むしろ、聖書が言う「罪」っていうのは、神さまが感じる「いやなこと」としたほうが、筋がとおると思うんだ。
そうであるなら、今日の聖書の言葉は、こうパラフレーズしたほうが、いいことになる。
神さまがあなたを見て
「いやだなあ」と感じることが
ぜーんぶ消し去られるように
悔い改めて立ち帰りなさい
人生では、自分がだれかを見て・あるいは・自分自身を見て、「いやだなあ」と思わない日は、ほぼ、無い。
だから、「いやだなあ」と少しも感じない状態になる、ってことは、ほとんど実現不可能なほどハードルが高いよね。
人間ですら、そうだとしたら、はたして神さまが誰かを見て「いやだなあ」とまったく思わない、なんて状態が、この世界にあり得るんだろうか?
あり得るんだよね。。。
神さまは、イエスを見て、こう声かけをしている。マルコによる福音書 1:11 の言葉だ。
あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者
新約聖書を読んでいて、福音だと思うのは、神はこのイエスのなかに全人類を数え入れることによって、われわれにイエスと同じポジションをあたえてくれる、ってことなんだ。
わたしたちは真実な方の内に
その御子イエス・キリストの内にいるのです *¹
今や、キリスト・イエスに結ばれている者は
罪に定められることはありません *²
愛がわたしたちの内に全うされているので
裁きの日に確信を持つことができます
この世でわたしたちも、イエスのようであるからです *³
自分で自分を見つめる。。。「いやだなあ」と思う。。。そんなとき、聖書の勧めに従って、悔い改める *⁴。
それから、神を見上げる。。。そして、この言葉が神から自分に語りかけられるのを、聞こうとする。
あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者
註)
*1. Cf. ヨハネ一 5:20
*2. Cf. ローマ 8:1
*3. Cf. ヨハネ一 4:17
*4. 悔い改めるとき、最近の自分は、もっぱら「イエスの祈り」(正教会で言うイイスス・ハリストスの祈り)を、痛悔の思いを込めて三回こころのなかで唱えるようにしている。「主イエス・キリスト、神の子、救い主。罪人のわたしをあわれんでください」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?