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ガリラヤの風薫るセントピーターズフィッシュの岩塩包み焼き。

朝、目が覚めて、まず唱える、この祈り *¹。

主イエス・キリスト、神の子、救い主!
罪人のわたしをあわれんでください

それから、洗面台の前に立ち、身なりを整える。

鏡に映し出された自分の姿。。。

疲れた顔。目の下のクマ。顔に浮き出ているシミ。。。

老化だなあ。。。そして、部分入れ歯をはめる。

だけどガッカリしないで、自分のこころを、この真理に向けさせる。来る日も。来る日も *²。

あなたがたの内におられるキリスト
栄光の希望です

生活のいろんな場面、状況、タイミングのなかで、えーっと、イエスは、いま、どこにいるんだろう? ってことを、よく考える。

宇宙の外? お空の上? 神の右の座? あたらしいエルサレム? 祭壇のホスチアの中? 自分の背後? 自分のとなり?

神学的には、そのどれもが正しくて、そのどれもが間違っている。

なぜなら、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と新約聖書は宣言しているからだ。

そうだ! イエスは自分のなかに生きている。みんなのなかに生きている。

しかし、いつのまにか、自分の人生は自分で全部しょい込んで自分の力だけで頑張っている気持ちになってしまう。。。

そうなると、自分の意識のフォーカスは、自分にばっかり向かってしまう。。。

自分が・自分の・自分に・自分を、の無限ループ状態に陥って。。。

すると、実に簡単にイエスの姿を見失ってしまう。

イエスは自分のなかに生きている。。。のだけれども。。。イエスを無視して、まるで存在しないものであるかのようにしてしまう、自分の意識の誤った働き。

もし自分が、『ガリバー旅行記』のラピュタ王国に登場する住民のひとりだったら。。。複雑な思考にはまりこんで正気を失うたびに、そばにいる「叩き役」が棒で目と顔をぶったたいて、目を覚まさせてくれることだろう。

しかし、どこまでもジェントルマンであるイエスは、静かに、やさしく、でも、はっきりと、こころのドアをノックしてくれる。

コンコン。おーい、ぼくだよ? 入れてくれない? って。

今日の聖書の言葉。

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
ヨハネによる福音書 3:20 新共同訳

しかし、ね。。。われわれがこころを向けさえすれば、イエスは、すーっと入って来ることができるお方なんだから。。。

だって、復活後のイエスは、弟子たちが厳重に雨戸を降ろし、戸締りしていた部屋のなかへ、壁を通り抜けて入って来れたわけであって *³。。。

別に、ドアがなくたって、入ってこれるんじゃん! 

だから、イエスに言っちゃう。。。

お願いです。もう、オレの気持ちには一切遠慮しないで、いつでも入ってきちゃってくださいよ、って。

そして、自分はもう自分のことを考えるのを止めて、じゃあ、なかに入って来たイエスと、どんな食事をするのか、ってことを考え始める。

わたしは中に入って
その者と共に食事をし
彼もまた、わたしと共に
食事をするであろう

その食事というのは、聖書に登場する食材だけに限られるのか、それとも、あらゆる時代のあらゆる土地のあらゆる食材にオープンなのか。

それは、わらないんだけど。。。

いちおう、聖書の地理の産物を想像してみるならば。。。

ミルク、チーズ、バター、ヨーグルト、ハチミツ、アーモンド、ピスタチオナッツ、ナツメ、小麦、大麦、キュウリ、ニラ、にんにく、たまねぎ、野菜、スイカ、いちじく、ざくろ、ぶどう、ワイン、ワインビネガー、オリーブ、オリーブオイル、魚、ラム、チキン、ビーフ。。。

さて、これらの食材を使って、自分が料理するのか、イエスが料理するのか、はたまた、自分とイエスが台所で肩をならべて、おしゃべりしながら料理するのか。。。

スープ
干しいちじくのハチミツ漬けをあしらった
冷製ヨーグルトスープ
オードブル
チキンと夏野菜のファヒージョに
カリカリに焼いたパンを添えて
サラダ
スイカ・キュウリ・たまねぎ・チーズ・
黒オリーブにビネガーのサラダ
ポワソン(魚)
ガリラヤの風薫るセントピーターズフィッシュ
(テラピア)の岩塩包み焼き
ソルベ
ざくろのグラニータ(シャーベット)
ヴィアンド(肉)
小羊のロースト
ナツメ入り赤ワインソースを添えて
ワゴンデセール(デザート)
ハマンの耳(三角クッキー)
スフガニヨット(ドーナツ)
ハルヴァ、いろいろな種類のチーズ
アーモンド、ピスタチオナッツ、干しぶどう

うむむ。。。期待は尽きることがない。。。

註)
*1.  この祈りは「罪人の祈り」とも言われ、ルカ18:13の徴税人の祈り「神様、罪人のわたしを憐れんでください」に基づいている。正教会(ギリシャ正教、ロシア正教、ハリストス正教など)では、この祈りをいつでも、こころのうちに唱えることが推奨されている。
*2.  Cf. コロサイ 1:27
*3.  Cf. ヨハネ 20:19

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