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進んで行こう、地図を片手に、まだ見ぬ世界へ。。。

無神論者でパルタイのシンパでもあった父は、よくこう言っていた。

目の前で見せてくれたら、信じるんだけどなぁ

それに対して自分は、「見えないものを信じるから、信仰なんだよ」と答えるしかなかったんだけど。。。

そんな父がある日、しゃっくりで苦しんでいた。

苦しまぎれに、「おまえのお祈りで止められたら、キリストを信じるよ!」と言うので。。。

それじゃあ、と、父のお腹に手を置いて「イエスの名によって命じる、しゃっくりよ、癒されよ!」と祈ってみた。

その途端ね。。。しゃっくりが、ぴたりと止まったんだ。

で、父はどうしたかというと、無言のまま、無神論を続行した(笑)

今日の聖書の言葉。

あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。
詩編 109:105 新共同訳

「見えないものを信じるから、信仰なんだよ」ということだけだと、じゃあ何でも無批判に信じればいいのか、ということになっちゃうかもしれない。

自分はクリスチャンなので、神の言葉である「聖書」をもとに信じていく、というスタイルを取っている。

聖書って、たとえて言えば、地図みたいなもんじゃないかな。。。

一度も行ったことがない場所に行くとき、地図があれば、それを見て、道をたどって、目的地にたどりつくことができるよね。

中学時代の自分は、この世界は半径500メートルしかなくて、遠くに見えるビルはすべて舞台や映画の書き割りみたいなものであり、その向こう側には何も存在しない、という感覚にいつもさいなまれていた。完全に精神衰弱だよね。。。

それから年月を経て、1997年に南アフリカのケープタウンに行く機会があった。喜望峰のいちばん先に立って眺めた海は、インド洋と大西洋の水の色が違っていた。自分の部屋に貼ってある世界地図の通りの地形であるばかりか、海の水の色まで、ちゃーんと分かれていたんだ。

喜望峰から去るとき、海岸の石を一個ひろってカバンに入れた。

それからというもの、時々その石を取り出して見つめながら思う。世界はぜんぜん書き割りなんかじゃなかった、って。

世界は単純に実在していて、だれかが行って見て作った地図が存在していて、地図と世界とは、おおむね一致している、ってことを、自分は体験しているし、信じてもいる。

その上で、世界は見えない領域にも広がっていて、見えない部分に関しては、神が作った地図が存在していて。。。その地図が聖書だ。。。聖書と見えない世界とは、やっぱり一致している、ってことを信じている。

聖書という地図を手に、見えない未来へ、そして、死後の世界へ、旅を続けて行くわけなんだけど、それは、非常に楽しみなことでもある。なぜなら、地図の作者である神。。。イエス・キリストが、こう約束しているからだ。

心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある
ヨハネによる福音書 14:1-2 新共同訳

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