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全能のパラドックスを超える神

神なんか、いない、っていうひと。けっこう多いよね。

でも、「神」っていう単語が存在してる、ってこと。

これだけは、たしかだと思う。

「神」っていうワードが、ここにある。

これが、どういうふうに存在しているかというと。。。

「神」(かみ)という音素であらわされた表記(シニフィアン)が、ある。

たしかに、あるよね。だって、何度でも自分、言えちゃうもん。。。

さらに、「神」という表記で指示される概念(シニフィエ)が、ある。

かみ、って聞いて、あたまのなかに思い浮かべられるものが、それだ。

これも、たしかに、あるよね。だって、何度でも自分、思い浮かべられるもん。。。

さて、問題は、「神」という概念に対応する実在(レフェラン)が、ほんとうにあるのか、ないのか、ってこと。

ここが、ね、人類のなかで意見が分かれるところだ。

世界人口 73億人のうち、23億人はクリスチャン(31.2%)。ムスリム 18億人(24.1%)。 ヒンドゥー 11億人(15.1%)。仏教徒 5億人(6.9%)。民間信仰 4億人(6%)だ。

なので、神、または、なんらかの神っぽいものの概念をあたまのなかに持っていて、かつ、それに対応する実在が、あたまのそとに、ほんとうに存在している、と考えている人は 61億人、人類の86パーセントぐらい、いることになる。

まあ、もっとも、なんでも多数派の意見がただしい、とは限らないわけだけど、さ。。。

ただ、神という概念に対応する実在が、ほんとうにある、と考えているひとが、人類の多数を占めている事実が「ある」のは、たしかだよね。

今日の聖書の言葉。

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ 全能の神の陰に宿る人よ
詩編 91:1 新共同訳

その神が、「全能の神」ってことになると、一気にハードルが上がる。

それを言おうものなら、「じゃあ、なぜ神はこの世界に、苦しみや悲しみや悪があるのを許容しているのか?」っていう質問が、かえってきちゃう。

この問いを、「神義論」(Theodicty)って言うんだけれど、古今東西の神学者が何千年かけて考えても、いまだに答えが出ない、最大の難問だ *¹。

でも、神義論に行くまでもなく、そもそも、全能って概念自体、無理がある、っていう指摘を受けちゃう。

それを「全能のパラドックス(逆説)」って言うんだけれど。。。

代表的な問いとして、「全能の神は、自分が持ち上げられない石を創造することができるか?」という逆説がある。

これはね、答えがイエスでもノーでも、どっちにしても、結果、神は全能でなくなっちゃう、という論理の袋小路になっているんだ。

自分が持ち上げられない石を創造できないなら、全能ではないことになる。

で、その石を持ち上げられないなら、やっぱり、全能ではないことになる。

すっごい意地悪な質問だと思っちゃうけど。。。でも、よく考え抜かれた問いだよね。。。

ずーっとまえ、2012年頃に、ある中学生ツイッタラーから、まさにこの質問を受けたことが、あったんだ *²。

お疲れ様です。質問を1つ。無神論者が「全知全能の神が存在するなら、その神は『全知全能の神が知らない物』または『全知全能の神が持ち上げられない大きさの岩』を作れるか。という疑問が解決できない以上、全知全能の神は存在しない」と言いますが、どう答えますか?

それに対して、自分は、こう答えた。

全能の神は、全能の神である「子」を生みました。子は十字架を担って倒れました。すなわち、十字架を自力では持ち上げることができませんでした。そして死にました。しかし、三日目に復活し、勝利者となりました。ここにおいて、神の全能は担保されていると考えられます。
全能の神である「子」は宇宙を創造しました。人となった子は、最高法院で殴られ「おまえを殴ったのは誰か言い当ててみろ」と言われましたが、当てることができませんでした。そして死にました。しかし、三日目に復活し、勝利者となられました。これもまた担保の一例です。
それゆえ、神が全知全能の神であるためには、神は万物の創造者であり、受肉して人となり、最高法院で殴られ、十字架によろめき倒れ、自ら立ち上がることができず、死んで、しかもなお三日目に復活し、勝利者となられる神。そのような神でなければなりません。
全知全能の神は「子」を生みたまい、子は神としてのあり方を捨てて、人のかたちを取り、十字架の死に至るまで「父」の御心に従いとおされました。受肉と十字架において全知全能の神は神の全知全能を放棄したまい、復活において神の全知全能を取り戻しておられます。
ゆえに結論として、全知全能の神がいたもうとするならば、それは主イエス・キリストとその父なる神、また、父と子の愛の交わりとしての聖霊でいたまわなければなりません。栄光が三位一体の神に、いまも、のちも、とこしえまでも、世々限りなくありますように。アーメン

あの中学生。。。いまごろ、どうしているだろう。。。

とにかく、あのとき、上のような答えを Twitter で書きながら、自分は思ったんだ。

全能の神が、ほんとうにいるとしたら、論理的には、その神は「三位一体」の神でなければならない、って。

しかも、三つの位格のうちのひとつが、問い詰められ、殴られ、何も答えられず、十字架によろめき倒れ、自力でそれを担い切れず、死んで、墓に葬られ、復活しなければ。。。そういう神でなければ、全能のパラドックスを超えた神ではありえないんだ、って。

そいうことを考えながら、新約聖書のページを、今日もめくる。

それは神ではなく、ただの紙だけど。。。

でも、そこには、たしかに記されているんだ。2000年の昔、ほんとうにそういう出来事が、あった、ってことが。

それを読んで、だから、自分はその「神」に、こころを向けて、祈るんだ。

よみがえられたイエスよ、聖霊をとおして、わたしのうちに満ちてください! って。

すると、自分のこころは、不思議にあたたかくなる。

それは、単なる自己暗示だ、って言うひともいるかもしれないけれど。。。

でも、その「あたたかさ」は、いま・ここに・たしかに「ある」んだ。

註)
*1.  世界になぜ悪があるのか、って問題。哲学や神学では、現状、答えが出ていない。そして、たぶん、これからも、ずっと出ないはず。でも、たとえば、SFとか使って考えてみたら、どうなのかな? SFのタイムマシンものや異世界もので、よく出て来る「世界線」という考え方がある。世界は、無数の可能世界に分岐していて、それぞれの世界でバッドエンドとハッピーエンド、結末がぜーんぶ違っている、っていう、あれ。量子宇宙論で言う「多世界論」は、それに近い考え方だと思う。だけど、世界線も多世界論も、現在進行形の世界についてだけ、語っているんじゃないだろうか。もし「世界線」を神学に導入した場合、こういう考え方って、できるんではないかと思う。。。神は、すべての被造物が最終的にハッピーエンドになるストーリーを想定して、世界の創造の「まえ」に、無数の可能な世界線について思考シミュレーションを行った。その結果、最適解がはじきだされたので、その最適解の実現として「現世界」を創造した。なので、現世界の最後の結末においては、すべての被造物の幸福が必ず達成されるはずだ、って。
*2.  Togetter「全能の逆説について」


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