ゆるし考。
こいつのこと絶対ゆるさない、ゆるせない、と思っていた相手のことも、5年、10年、15年と年月がたつうちに、だんだん忘れていくものだよねー。
なーんてのんきに考えていたけれど、最近ガガッと過去を思い出させられる機会があって、そうすると、忘れていたはずなのにグヌヌッって怒りが込み上げてきた。
まあ、昔の怒りのゲージを100だとすると今は36ぐらいではあるんだけどさ。。。
やっぱりオレ、忘れてなかったんだ、完全にはゆるせていなかったんだ、ということを、しみじみ思わされた、雨曇りの初夏の夕暮れ。
で、もっかい、ゆるす決心をしたのか、って?
いや、無理(笑)
今日の聖書の言葉。
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
マタイによる福音書 6:14 新共同訳
だから、このままだと、ずーっとその相手(複数)を呪詛し続けていくことになる。呪いの詩編を唱えながら。。。
でも、それだと「オマエも赦されないことになるよ? いいの?」と、今日の聖書の言葉が問いかけて来るんだ。
それは嫌だ! 困る!
なので、気を取り直して、やっぱり「ゆるす」ための決心をしなければならないよね。神さま、どうかオレを助けてください。。。
インドで長年にわたり伝道し、ネルーやガンジーの親友でもあった E.スタンレー・ジョーンズ(1884-1973)という宣教師が『力と落ち着きへの道』(1949)という本を書いている。
彼はインドで最初の精神科のクリニックを開いたひとでもあるんだけど、患者にカウンセリングするなかで、神経症に苦しむ人のなかには「ゆるせない」という思いが原因になってる場合があるんじゃないか、と考えた。
それで、彼は「ゆるす」ことを患者に勧めてみた。
神のひとり子であるイエス・キリストの身代わりの十字架によって全人類の罪はゆるされた。この事実に基づいて、あなたの罪は完全にゆるされた。だから、そこからもう一歩進んで、あなたも過去にあなたを傷つけた相手をゆるしてみたらどうか。
そういう勧めをしたんだ。
その勧めをすなおに受け容れて「ゆるします!」と決意した結果、不思議なことに神経症の症状が緩解する人たちがいたんだって。
相手のためにゆるす、相手を思ってゆるす、ということであれば、相手が先に立つわけだから、考えれば考えるほどもっと怒りがわいてくる。
オレの状況が、まさに、それ。
なので、相手のためにゆるすんじゃない。自分のしあわせのためにゆるすんだ、と考えればいいんじゃないのかな。
人間は基本的に利己的だ。自分の利益に合致するなら、進んでする。
だから、相手をゆるすことについても、自分の利益を先に立てれば良いのだと思う。
神さま。オレは一生のあいだ神経症に苦しむのは御免です。だからアイツをゆるします。それだけじゃありません。オレはすべての罪をゆるされて、天国で永遠の命を楽しみたいです。だからアイツをゆるします。いま、ゆるしました! オレの決心を受けれてください。イエスの名によって、アーメン
なんとまあ、品の無い自分中心の利己的な祈りであることか。。。
でも、それでいいんだと思う。
そうじゃなきゃ、いつまでたっても、ゆるせないじゃん。
なので、ここはなりふりかまわず、自分最優先で、開き直って「ゆるす」決心をするよ。
自分ファースト!!!
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