最後の瞬間に自由になるか、いまこの瞬間に自由になるか。。。
ジョン・ウェスレーという伝道者が18世紀のイギリスにいた。
彼は「時間」を管理するため、若い頃から日記をつけてた。さらに、自分がどのように生きたかを、すべての人に明らかにするために、なんと日記を本として出版した。それも、自分の存命中に、だ。
もしウェスレーが、いま生きてたら、SNSの愛用者になってただろうなあ、と想像する。
その日記には、彼があちこちの村や町で、臨終の場面に立ち会った様子が記されている。
保健医療制度が整っていなかった時代。ほぼすべての人が自宅で臨終を迎えた。しかも、鎮痛剤や鎮静剤がなかったから、痛みにたえかねて、のたうちまわり、神を呪う言葉を吐きながら、衰弱していく人が多かった。医師には、なすすべがない。。。だから、困り果てた家人たちがウェスレーに頼み込んだんだ。「先生、来て、祈ってください」って。
ウェスレーはそれに応えて臨終の床をたずね、枕元で讃美歌をうたったり、聖書を朗読したり、祈りをささげたりして、息を引き取るまでの数日間、場合によっては数週間を見守った。日記には、ひとが臨終を迎えるまでにどのように変化して行ったかが、記録されている。
看取りをはじめた時、すさまじい形相で神を呪う言葉を吐いていた人が、今度は、自分は地獄に落とされるという恐怖で泣き叫ぶようになり、それから、すべてのことについて、あがいたり、もがいたりすることをあきらめて、イエスにお任せするしかないんだという気持ちになり、でも、任せるか任せないかで葛藤したのち、ほんとうに観念して、自分をイエスに委ねる決心をした瞬間、まるで憑き物が落ちたみたいに静かになって、それどころか、顔が希望と喜びに輝きはじめて、目は天の一点をみつめ、最後には「わたしはもう愛しか感じません」「こんなにすばらしい愛があったとは!」と感激しながら、平安のうちに息を引き取って行く、という。。。
今日の聖書の言葉。
真理とはイエスのことだ、と自分は思う。
真理を知る、つまり、イエスを知ることによって、われわれは死の恐れから自由にされることができるんだ。
ウェスレーはたくさんの臨終を看取った経験から、このように考えた。
人生の最後に経験する、あの素晴らしい愛、あの素晴らしい平安は、死ぬ瞬間まで待たなければ、得られないんだろうか?
もし、元気で生きているあいだに、あがいたり、もがいたりすることをやめて、ほんとうに観念して、自分をまったくイエスに委ねる決心ができたら、死ぬよりずーっと前でも、あの愛、あの平安を、経験できるんじゃないだろうか?
ウェスレーは、その経験を「全き愛」と名付けた。
それは、死よりどれぐらい前に経験できるんだろう?
5日前? 50日前? 5年前? いや、たとえ50年前であっても、ほんとうに自分をイエスに委ねれば、今日この瞬間、経験できる、とウェスレーは考えたんだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?