「身体拘束」の困惑
介護や福祉では、気付かないうちにしているかもしれない。してはいけないと分かっているつもり。
僕にも残る身体拘束の記憶。
その時には分かっているつもりでも「ほんの少しの罪悪感」だったと思う。
「〇〇することをやめてほしかっただけ」
夜中に徘徊するのをやめてほしかった「だけ」
異食をやめてほしかった「だけ」
自傷行為や他害をやめてほしかった「だけ」
ここには「身体的な危機感」があるはずだった。
夜中に歩き回ると転んでしまう。ふらふらして転んでしまう。
のどに詰まってしまう。
自分や他人にけがをさせてしまう。
そして、医療に関わり本人に負担がかかる「はず」。
ただ、その裏には「介護職の技術不足・知識不足」があるのかもしれない。介助していると予期できないことがある。自分ではどうすればいいのか分からないから、拘束することで解決しようとしていた。
そして、もう一つは「利用者に対する逃げ」みたいなものがある。
「〇〇されると困る」というもの。自分が楽をしたいから、落ち着いて仕事がしたいから、イライラしたくないから、と、まるで利用者を邪魔者扱いするような対応や、自分の視界から排除しようとするために拘束をしていたと反省しています。
ここで改めて「身体拘束」とは何かを調べてみました。
身体拘束とは、 徘徊、他人への迷惑行為等のいわゆる問題行動などを防止するために、車いすやベッドに拘束するという、高齢者の行動の自由そのものを奪うことです。また、車いすやいすからのずり落ちや転倒、ベッドからの転落、車いすとベッドとの間を移乗する際の転倒等といった事故を防止するために、これらの用具に拘束するという、福祉用具の間違った利用のことを言います。
『健康長寿ネット』より
身体拘束の判断基準
① 要介護者自身が解除出来ない道具を使用している。
② ①の道具を使用した結果、要介護者の自由な動きを制限(抑制)している
①の道具に関しては、抑制帯や安全ベルトだけでなく、要介護者自身が外すことが出来ないもの全てが該当します。極論を言うと、自分で衣服の着脱が出来ない場合は、着ている衣服すら①に該当します。また、内服薬等も飲んでしまうと自分で吐き出すのは困難なため、過剰投与すると①に該当します。
また、②の自由な動きは目的のある動きだけでなく、目的のない動きも含まれます。自由な動きを制限する目的以外で道具を使用していても、結果として自由な動きを妨げていれば身体拘束に該当します。
例えば、歩けれるはずなのに、車いすに乗せる。ベッドに不必要な柵をつける。
これって、福祉用具だけの話かな?
例えば、居室や共同生活室のテレビで利用者の好きな番組を延々と流して、利用者を夢中にさせて、行動を制限させる。多くの食事用のタオルやエプロン等をたたむことを利用者にさせている。
このことは身体拘束にならないか。利用者も自分でやめようと思えばやめられるし、楽しんでいるから問題ないのかな?でも、程度の問題だと思うんだけどなぁ。
ここでは「道具」をすることについて書かれているけれど「行動の自由」を奪うのは「言葉」もありうると思う。定義では、言葉による制止は身体拘束にならないと書かれていたと思う。だけど、いきなり大声で「ダメ!」と言われたらビクッとしてしまうし、何回も同じことを言われても制止するかもしれない。そして、スタッフは利用者の前に仁王立ちになり、壁を作っている。さすがに怖いよね。顔は怒っていなくても、スタッフでも雰囲気で分かる。
今考えると、利用者に行動の理由を聞くことも、話をじっくりすることもしていなかった。未熟者だったころ(今でもそうだが)、特別養護老人ホームの夜勤で25人の利用者を1人で行うことは「何事もありませんように」と願っていた。夜間に部屋から物音がすると、すぐに様子を見に行き、なるべく居室から出さないように、居室から出てきたときでも早めに戻ってもらっていた。このことも身体拘束の一つになりうる。
道具を使わないまでも、本人の自由な動きや「話をしたい」という思いを制限している。
そうでなくても、介護や福祉では「施設」や「事業所」「組織」の中で拘束されている。利用者だけでなく、職員もそう。「こんなことができたら、利用者は楽しんでくれる」と思っても、法律というか、安全というか、で制限されてしまう。だから、職員は「組織」の中で制限を守るため、利用者への「拘束」をしてしまうのかな。(言い訳みたいになってしまいました)
「身体拘束はしてはいけない」ことは、当たり前になってきていますが、無言の圧力や、身体拘束をしてしまわないような環境を整えることの必要性を感じています。
この話については、まだ自分の中でははっきりしていないところがあったり、「これでいいのか」と自問自答してします。また、時間を置いて書ければいいな。