3月11日
こんにちは、makoto です。
今日は3月11日。
テレビやラジオでは東日本大震災発生から11年目ということで朝から特集が組まれている。
僕も11年前を思い出しながら個人的な記録として書き記しておこうと思う。
2011年3月11日は金曜日。子供達は2人ともまだ小学生だった。
僕はちょうど会社で4月に向けての部署異動のタイミングで、午前中は大手町に直行して引き継ぎの打ち合わせをしていた。
打ち合わせが終わって、東京駅から御茶ノ水経由で電車で会社に戻ろうとしていた。昼食も兼ねて乗り換え駅の御茶ノ水で降りた。軽い昼食を済ませてディスクユニオンを覗いて表に出ると、春の訪れを感じる気持ちよい陽気になっていたので、
「そうだ!午後からは特段急ぎの予定もないし、このまま会社まで歩いて行こう」
と駅とは反対方向に歩きだした。
御茶ノ水からだと総武線沿いに歩いても1時間かからずに帰社出来る。
この日以降、事あるごとに会社から御茶ノ水駅、東京駅、上野・秋葉原駅などへはよく歩くようになったのだが、日中帰社のため1時間近く歩いてみたのはこの日がおそらく最初だった。
午後から新しい所属先へ顔を出して緩い打ち合わせとも呼べないようなものがあるというのも、軽い高揚感となっていたのかもしれない。
ゆっくり歩いて1時半頃にオフィスに到着した。
ちょっと疲れたけどいい運動になったなと軽い充実感で、自分の机に荷物を置いて、新しい所属先に行った。
やぁ久しぶり来月からよろしくね、なんてワイワイやっていた。
14時46分、岩手県沖から茨城県沖に及ぶマグニチュード9.0の地震が発生した。東京も震度5の大きな地震だ。
オフィスはビルの3階にあったが、それでも結構グラグラと揺れだして、なんかこれはいつもと違ってヤバいかも、と思いながら皆で机の下に隠れた。
揺れが収まり、さっきのは本当に大きかった、だんだんグラグラと揺れが大きくなってきてダメだと思った、とか言い合っていると、総務の人が階段で一旦外へ出るようにと言いまわっている。
階段で1階ロビーまで降りると、やっぱり中に入るようにとのこと。指示系統も混乱しているようだ。
階段で3Fまで戻って、トレイに行っておこう、と個室に入りズボンを下ろしたところで再び地震が。
先程ではないがやはり大きな揺れに感じる。慌ててトイレからでてオフィスに戻る。揺れは収まっているはずなので、地面が揺れているようで体がふわふわしている。
今度はビル管理から館内放送でビルの外に出るようにとのアナウンス。
再び階段で1Fまで降りてビルの外へ。
車道にも車はほとんどなく、オフィスビルから出てきた人で溢れている。
自宅に何度か電話をするが携帯が全く繋がらない。
これは大変なことになったな。
大阪から出張で来ていた社員が、新幹線が止まったようなのでホテルを予約しようと思うが電話が繋がらないと言っている。
ほとんどの電車が止まっているようだという話している声が聞こえる。
そんな中、またもや余震。目の前のビルがぐにゃぐにゃと揺れている。
ビルがこんなに揺れるなんてはじめて見た。最上階だとさぞかし恐ろしいだろうと思った。
1時間近く外にいただろうか、ビル内に戻ってもよくなったらしいと続々と入っていく。階段でふたたび3階へ。高層ビルにオフィスがある人とかはきっと大変だろうと思いつつオフィスへ入る。
インターネットに繋いで情報を集める者、
心細いのかグループで集まっている者、
家族の安否を確認するためか、しきりに電話をかけているが一向に繋がらないと嘆いている者、
僕は早々に電話で連絡を取るのは諦めてメールだけ入れておいた。
子供たちも全員家に揃っていてなんとか無事だとの返信はあったので少し安心していた。
4時半頃、電車が止まっているが徒歩で帰宅出来る者は帰ってよいとの連絡が入る。新しい所属先の先輩が、私は東十条だから歩けなくもないので帰ります、というので、じゃあ僕も方向が同じなのでご一緒しますと一緒に帰ることにした。
最短ルートは分からないけどさいたま市内まで25キロちょっと。もちろん走ったことはないけどフルマラソンよりはずっと短い距離だ。なんとかなるだろう。
水道橋を抜けて北上していく。歩道は徒歩で帰宅する人で鈴なりのように連なっている。
途中、自転車屋があった。店頭にはほとんど自転車がなくなっていて、それでも売るモノはないか?と交渉している人がいる。
飲み物や食料品を求める人で溢れているコンビニを横目に歩いていく。
どんどん暗くなって気温も下がってきている。
途中までは不安を紛らすように喋りながら歩いてきたが、2時間近く歩いているとだんだんと無口になりただゴールを目指して歩いている。
疲れたな、足が痛い。どうしてよりによってこんな日に御茶ノ水から会社まで歩いたんだろう、余計なことしたな、とか考えながら歩いた。
たった2時間くらいなのに、横浜地域を営業に出ていた頃は1日中歩いていたはずなのに、かばんも重い、ショルダーが肩に食い込む。リュックにしておけばよかったな。ネガティブなことばかり浮かんでくる。
18時半頃、王子本町辺りを過ぎて先輩の家が近づいてきた。
先輩は愛知県の人だが、50を過ぎて東京転勤になりご子息も遠方の大学に行っていたということもあり奥様と2人で借家住まいをされていた。
タイミング悪く定年を迎え嘱託契約になる4月には愛知県に戻ることになっていた時に震災にあった。
19時前、ぼちぼちと引っ越しの片付けをしていたから中が散らかっているけど入ってと、少しだけ休憩させてもらうためお邪魔する。
NHKの19時のニュースを見る。東北の方は大変なことになっている様子が報道されていた。
東北のことを考えると、東京近郊はビル崩壊もなさそうで被害は少なかった方だったね、と暖かいお茶を頂きながら話をしていると、少し落ち着いてきた。
19時半、そろそろ僕もお暇します。
「古い自転車だけど置いていこうと思っていたから、良かったら乗っていきな、まだ結構距離あるでしょ?」
と先輩からの予想外のお申し出。
遠慮せずありがたく自転車をお借りする。
「いいよいいよ、いらなくなったらそのまま処分しちゃって」
まだ15km近くあったので、自転車をお借りして本当にありがたかった。
赤羽方面の国道沿いは歩道も車も帰宅する人の群れで渋滞している。
歩道は全く自転車が入る余地がないので、車道に出て車の間を右へ左へぬって走る。途中何度もクラクションを鳴らされるが構っちゃいられない。
赤羽を過ぎて新荒川大橋に向けて右折すると、一気に歩道に人がいなくなり車の数も少なくなった。
自転車を漕ぐ、車道を漕ぐ、段々と寒くなってきた。コートのボタンを上まで留めて襟を立てて走る。まだ3月半ばなので夜は冷え込む。
夜道に吉野家だけ煌々と明るく浮き上がっている。客はいない。
産業道路に入ってさらに北上する、川口を通り過ぎて蕨を通り過ぎてさいたま市内に入る。もうすぐだ。
22時前。無事に帰宅。家族は無事だろうか。鍵を開けて中へ入る。停電していて部屋は真っ暗だ。居間に入ると電気ランタンを真ん中に、妻と子供たちが座っていた。お帰り!みんなも無事で良かったね!やっと安心して一息ついた。
その日は布団を並べて家族4人で川の字で寝た。
会社を出てから5時間ちょっとで帰宅出来ただけでも良かったほうだろう。
もし、先輩に自転車を借りていなかったら、日付が変わる前には帰宅出来なかっただろう。先輩ありがとうございました。その自転車はその後も大事に使わせて頂き、3年近く乗った。
これが僕の311だ。
あの後、外回りする時前後に余裕があると極力歩くようにしたし、かばんはリュックタイプにも出来る3Wayのバッグにした。ブラックスニーカーを買って会社に置いておくようになった。
自宅でも震災用に避難用のリュックや簡易トイレを用意したり。
でも、それも数年経つと忘れてしまい、また緊張感の無い慣れた暮らしになっていく。福島県を震源にした余震がたまに起こるたび、ちゃんと備えておかないといけないね、とほんの少しだけベルトを締め直す。
311の特番があるたびに、気を引き締めていこうねと思っている。
東日本大震災にて亡くなられた方へあらためてご冥福をお祈りします。
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