社会で生きる私
鴻上尚史『「空気」と「世間」』という本で述べられている意味で言うところの「社会」を私は今まで生きてきたし、
きっと、これからもそのように生きていくのだと思います。
前回の記事『世間知らずの私』でも書きましたが、
世間のルールがすべて揃っている状態のとき、それを「世間」と呼び、
世間のルールでうち1つ以上が綻びているような、不安定で流動化した状態のとき、それを「空気」と呼ぶのだそうです。
私は「世間」知らずで生きてきましたから、当然ながら「空気」にも無頓着です(笑)。
そもそも空気がよくわからないし空気が読めません。
また、空気を読もうとも思いません。
不毛なことにしか思えないからです。
西洋では「個人」がキリスト教を背景に確立していて、
その「個人」を前提として「社会」が構築されていた。
一方、日本では富国強兵の名の下に形式的に「社会」「個人」という単語を建前として導入したに過ぎなかったため、
実態としては「個人」も「社会」も確立されないまま、
「世間」が実権を握り続けてきた。
日本も近代化が進むにつれて、地域共同体が徐々に崩壊していったが、
西洋のようにキリスト教という後ろ盾があるわけではなかった日本では、
自分を支える絶対的なものを見失う人が増えてきて、不安を強め、その結果、
極めて分かりやすい、誰もが発言できる「世間」に後ろ盾を求めた。
それが「古き良き日本」という「世間」だ、
と鴻上氏は言っています。
ルソーが提唱したような「社会契約」は一種の幻想だ
と思いますが、それでも西洋では実体化した「社会」として確立し、
その運用が「個人」によって為されてきた。
私は、義務教育課程や高等教育における「社会科」の授業の中で、「社会」の仕組みを習い、
それを真に受けて生きてきました。
どおりで長年ずっと浮いていたワケです。
21世紀も四半世紀が過ぎようとしています。
私のように、
日本にはそもそも根付いてさえいなかった「社会」を生きようとしつづけている人も
最近は増えてきている気がします。
息苦しくなるくらいなら、
私は幻想でも構わないので「社会」を生きていきたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。