クセが強い!
声変わり中(現在進行形)の長男なのだが、「あれ。なんだかそのかすれ声、誰かに似ているよ……」と、家族みんなで検証したところ、それは千鳥のノブと判明。
息子の声質は刻々と変わっていくので、このかすれたノブ状態がいつまでもキープされるとは思えない。だからこそ家族は、今が貴重なこのノブに、モノマネをせっせと求めるのである。
反抗期を疑うほどのノリで、息子はその期待に応える。
「この味噌汁はしょっぱいんじゃあ……」などという、語尾「じゃあ……」パターン。
激しくツッコむときの「クセが強い!」パターン。およそ2種類。
そっくりの声を聞いて私たちは「ノブじゃ」「ノブじゃ」と、キャッキャッ盛り上がっている。誠に平和である。
しかし困ったことに影響されやすい私は、それが自分にもうつってしまっている。
「洗濯物が生乾きなんじゃあ……」だとか、「クセが強い!」だとか、気がつくとぼやき始めた。家庭内で収まっているうちはいいが、外でやらないように注意しなければならない。
でもね。この「クセが強い!」といツッコミ、実にいいなぁと思わず唸ってしまうのであった。
どんな人でも、たとえ嫌いな人でも、いったん「クセが強い!」と切り捨てれば、なんだかスッキリ気が済むのである。
先日も、中学の委員会活動で、私はとある難癖をつけてくるタチの悪いお母様に振り回されたのであった。おまけにことが片付いたと思ったのに、夜、メールでさらにクレームをつけてくる追い打ち付き。
〈あのですね。そちらが書類にちゃんと目を通さなかったから、こんなことになってるんですよ〉というセリフをぐっと飲む、私。やめよう。昼間の様子から、ちょっと話が通じそうな相手ではない。ましてや喧嘩はメールでするものではない。
〈そうだったんですね。大変でしたね。じゃあ、こうならないように次回は何か手を打ちましょう(ハート)〉と、メールを返した後に、静かに息を吸う。そして……
「クセが強い!!」
あれ? なんだかスッキリした。
すべての際立った現象は、単なる「クセ」にしてしまえばいいのである。すなわち、クセとは「個性」である。そうすると「クセが強い!」と言い放った後も、「他人の悪口を言った」という後味の悪さが残らない。
意地悪ママも、マウントパパも、みんなクセが強いだけなのだ。ものすごーく個性的なだけなのだ。
つい愚痴りたくなるときは、「あの人は個性的だなぁ」って自分の感情を逃すの、なんだかいいと思う。言葉を選んで、「あの人、ほんとに変わってる」と言うよりも、いい。おすすめ。
確かに、この世に良いも悪いもないのである。
私の正義が、彼女の正義ではない。彼女は自分が正しいと思っているからこそ、私にクレームをつけているのである。書類なんて知ったことではないのである。
(まぁ、指示が記載された書類は、ちゃんと読まないと始まらないけどね……)
この世に正義はない。
手塚治虫の『アドルフに告ぐ』を読んだ高校生のときにそれを学び、胸に刻んだはずだった。学んだはずなのに、つい気がつくと、良い悪いとジャッジしてしまうときがある。
「なにそれ。あの人、間違っている」だとか、「あっちが悪いよね!」だとか。
自分が正しくて、あっちは悪だと決めつけたいのである。「こういうときは、こうすべきなのに、あの人おかしいよね」と、自分の常識を押し付けているのである。
そうではない。そうではないのだ。
みんな「クセが強い」だけなのだ。
そう言い放って、溜飲を下げよう。これからも。