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この夏の読書記録。

この夏はすっかり旅の人となってしまい、趣味の”生活に占める割合ランキング”が、読書 >>>> 運動 >> 旅、から、旅 >= 自転車 >>> 読書、へと変動してしまったのですが。。
旅の中で読んでいた本や日常の合間で開いていたページなども多少は存在し、それらは少なからず私の思惑を引っ張ったり押したりしていたことだろうから。ここに残したいと思います。

この夏は自分の外の物事を深く考え込むということを殆どしなくなっていて、その分無意識的な思惑や、移動距離に比例した思考量の増加、などはあったので、それ自体は私の中では悪くは評価されてはいないのだけれども、それでもその一因は読書量の減少だよな、とは思う。

言葉を摂取して初めて、私は言葉で考えることを始める。
これが良き傾向なのか否かは私にはまだ判断できないけれども、私の思惑が如何に読書遍歴に影響されているのか、ということも含めて、読まなかったからこその気付きだったのかもしれない。

人外

ここ最近で読んだ小説の中で、東京プリズンと並んで、しかし全く別の方向で、最も残る一冊になった。

私は小説というものがどのようなものなのか、まだ分かっていない。この世には、小説と呼ばれるものが溢れ過ぎているように思う。しかし、これは、小さく説かれた何かの中でも、私にははじめての手触りをしていて、ほんとうのかんどう、と呼びたいような何かを私に引き起こした。

包み込まれるさびしさ。静かだが温かく故に冷たさが染み入る文体。
生きることについてぶち当たる度に触れたくなる文章で、泣きたいくらい好きな1冊。

じぶんもまた海なのだ。じぶんと海のおおきさの差など、相対的なものにすぎないのではないか。海はじぶんを包含するが、逆にじぶんが海を包含するともいえる。ならばこの海景は、つまりはじぶんの中の光景ではないのか。

フラニーとズーイ

だれか経由で出逢った本って、幸せじゃないですか。
私がこの本を好きなのは、ともだちがおすすめしてくれた本だからという二次情報抜きになのだけど、だけどなぁ、幸せ。

私は若者として救われたいのだ、と思った。
私はフラニーをよく分かる、と思った。
そういう大学生を私はしているし、そういう大学生として救われたいのだ、と。

これを読んで救われたのかは分からないけれど、大学生の今の時期に読むことができてよかったと思った。これは来年でも去年でもいけなかった。そういうことが時々ある。

車輪の下

私はあまり海外文学を読まずに育って来たのだけども、それを少し後悔している。
日本語で描かれたコンテンツで一生涯十分生きていける、というのは、日本人としてはとても誇らしいことで、私は今までそう考えて進んでは海外文学の棚に行くことをしていなかった。
この無駄な敷居のせいで、読むべき時を逃しそうな本が多いことは、憂うべきことです。

これは、イギリスに向かう飛行機の中で読んだ。

私の魂は解放されたがっているのだと思った。
私の精神は未だ若く、変容し易い。その器を、”国家によって認められた中庸を得た理想”の形にする必要なんぞどこにもない。
そう日記帳に慌てて書き連ねた。

今の私の苦悩を説明する言葉が多くある一冊だった。老いた、私の尊敬に値する歳の重ね方をした人が、自分の人生を顧みてこうして小説にしてまで癒そうとする傷が、今の私なのだと思うと、どこか救われる気分になった。

良き時に出逢った一冊だった。

永遠平和のために など

「啓蒙とは何か」自らの理性を用いる勇気を持て、との趣旨には大いに頷けるが、こうした哲学的文章を読むには、私はまだ精神が熟しきっていない。というのが現時点での感想。

「永遠平和のために」に関しては、現在の世界情勢など踏まえ再度研究する必要のある一遍だ、とは思った。私は平和について哲学的正解を求めたがっている。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ずっと読みたかった、やっと読めた一冊。青春18きっぷで栃木に向かう電車の中にて。

地べたからの視線、というものを、私は持ちたい。持たなければならないし、持たない人になりたくない。そういうことを、青い心で私はずっと思っていて、そのロールモデルを、やっと発見した。そんな気がした。

同時に私はこれを読む前、2週間もイギリスにいたはずなのに、私は何も見ていなかったのだと突きつけられた。何が地べたからの視線だ。私が見ていたのは上澄みの上澄み、美しいところだけじゃないか。怒りが沸いた。

今、良きレールのはずの道の上でなぜか立ち止まってしまった私は、何をどのように学べば良いのかを、途方に暮れつつ掴もうとしている。これだ、と思った。ブレイディみかこさんの文章を拠り所にすれば良いんだ、と。
そんな一冊だった。

コーヒーにミルクを入れるような愛

岩手から帰る時に、友達がくれた。貸してくれたのかもしれないので、丁寧にとっているけれど、多分くれた。

あったかくて、友達がこれを読んでいたんだ、ということがなんだか嬉しかった。

泣いて、友達に会って、笑って、誰かと一緒にご飯を食べて、きっとこれからも悲しいことや嬉しいことがたくさん起きるけど、これだけは変えずに生きていこうよ、私たち、なんて思った。

いくつになっても、旅する人は美しい

歳を重ねるっていいなぁと、常々思う。
現在21歳。今の私にできる旅は、パワーエネルギー愚直全振りで、こんな旅はまだできないなぁと、羨ましく思う。
だけど、それが歳を重ねるってことじゃないですか、今がなければ重ねられないじゃないですか、だから良いんですよね、人生。

ガザからの報告

シェイクスピア詩集(対訳)

イギリスに行って、シェイクスピアに全く興味を持っていなかったことに気付き、神保町にて購入。
寝付けない夜などにひっそりと書いては自分でも訳してみる時間を作っているけれど、なんだか良い。たまに無性にシェイクスピアが好きになってしまう瞬間がある。
時を超えて愛されるというのはこういうことなのだろうか。

朝のあかり

広島から鳥取に向かう輪行電車にて、青春18きっぷと読書の旅、と称して。

私は高校生の頃に模試で石垣りんさんに出逢って以来、時折詩集を開いては1時間ほど読み耽ってしまうくらいにはファンをしているのだけど、彼女の書いたものを読むといつも苦しくなってしまう。

生活を一足一手丁寧に営むということは、本当に美しい。
だけど、なんで彼女の書くものは、こんなにも苦しいのだろうか。

最後の殉教者

久しぶりに中高の国語の先生にお会いして、遠藤周作が読みたくなった。
私が遠藤周作にはじめて出逢ったのが、中学3年生の先生の授業で扱った、『沈黙』だったから。
思えば私の高校生活には節目節目で遠藤周作が浮上していた。
大学受験の直前期に、『海と毒薬』を友達4人で回し読みして、みんなで数日落ちたことは結構面白懐かしい。(そーいや私以外全員医学部行った)

人は救い難く弱い生き物なのだと、彼が描く人を見ていると痛感する。だけど、それでもそこには愛があって、私たちはどれだけ弱くとも愛されるに足る存在なのだと、救われる。その筆致が私は、本当に好きで、また読んだ。

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この夏の読書は、小説がメインで、軽かったけれどそれぞれが大切な一冊になっていた。読んで、旅をして、葛藤して、そうして重ねていく日々って愛おしいと、こうして振り返るとしみじみと思う。良いものだ。
来月からは大学が始まるわけだし、今度はもう少し学問領域寄りになるだろうか?そうしたらまた、考えることも変わるんだろうな、色々と楽しみではある。

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