真の読書とは
Twitterで、真の読書好きは目的や効率なんて考えない、というツイートを見かけた。
確かにSNSで読書家を名乗る方々を見かけると、大抵は小説や純文学について語り合っているようだ。芸術として文学を愛し、読書そのものを楽しんでいる。RPGで例えると僧侶のような存在か。
その一方で、読書とはビジネス書を読むこととし、効率の良い読書法を説いている派閥もある。意識高い系というのだろうか。彼らにとって読書は手段であって目的ではない。彼らの目的は「ビジネスでの成功」だ。そのために勉強として本を読む。その上昇志向は紛れもなく戦士に違いない。
このようにSNSの読書好きには大きく分けると2通りある。そして、我々の知らないところで、きのこたけのこ戦争のような派閥争いが繰り広げられているのだ。
私は自己啓発本やビジネス本、心理学の類が大好きだ。最近は哲学や世界史も面白い。一見戦士タイプかとも思えるが、志は高くなく、世界を変えてやろうという気概はない。戦闘にも行きたくないし、本音を言うと村からも出たくない。
幼少期は私だってファンタジーやミステリーが好きな「読書家」であったはずだ。
いつから道を違えたのか、振り返るとちょうど高校生くらいの頃じゃないかと思う。私が受験した大学入試センター試験は、国語といえば小説と評論文、そして古典といった出題形式であった。物語を読み作者の意図を汲み取る小説、論文を読み著者の考えを読み取る評論文、どちらも好きではあったが特に評論文を得意としていた。評論文特有のカチッとはまる感覚が読んでいて気持ちが良いのだ。
大学は、本と英語が好きだという安直な理由で英文学科に進む。しかし芸術としての英文学よりも、文法や言葉の成り立ちなどの英語学を研究する予定だった。単語の成り立ちやコロケーションを好み、シェイクスピアの世界観よりも、根底は何を言いたいのかということに興味があった。話や言葉の辻褄が合い、収まりがいいと感じる瞬間が、読書をする上で一番楽しい。
社会人になった今でもそうだ。自称読書好きなくせに村上春樹を読んだことがない。明治以降の文豪と呼ばれる人たちの作品に殆ど触れたことがない。毎年誰が芥川賞や直木賞を受賞しているのか、ニュースで見かける程度で全然覚えていない。こういう点がコンプレックスで、人前では読書好きを名乗らないようにしている。
しかし、小説を全く読まない訳でもないのだ。江戸川乱歩のミステリーや、料理をモチーフにした物語は好んで読む。歴史小説も純文学も、ノンフィクションも、嫌いな訳では無い。
書き手としての小説もまた難しいものである。高校生の時に小説を書こうと試みたことがあるが、登場人物の動きを表現することは非常に難しい。例えば食事のワンシーンを表現するにしても、料理の様子、箸を持ち口に運ぶ動作、咀嚼音、食べた時の感想、一コマ一コマ情景が浮かぶように表現するのは読む側からは想像もつかない程大変な作業だ。
その点評論文やエッセイは、一人称が自分だ。思うままに書けばいい。私が小説よりもエッセイを好む理由はきっとこういった所から来ているのだろう。
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知見を得るために本を読むが、たまには純文学にだって触れるし、小説だって読みたい。いいとこ取りをしたいわがままな私は、残念ながら僧侶にも戦士にもなれそうにない。
白黒つけずに、弓使いのような立ち位置で読書を楽しみたいと思う。
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